大仏開眼供養

高校日本史的重要度
★★★

語呂合わせ:「何個作った?」「だいぶ作った。」(なんこつ→752年、だいぶつ→大仏開眼供養)

大仏開眼供養 (だいぶつかいげんくよう)

752年

【概説】
752年(天平勝宝4年)、平城京の東大寺において、完成した盧舎那仏(大仏)に瞳を描き入れて魂を迎える盛大な儀式。聖武太上天皇や孝謙天皇をはじめ、インドや唐など海外の僧侶も含めた約1万人が参列し、仏教の力で国を守る「鎮護国家」の思想と天平文化の国際性を象徴する歴史的法会。

相次ぐ社会不安と「鎮護国家」思想

奈良時代前半の聖武天皇の治世は、決して平穏な時代ではなかった。皇族や貴族間の激しい権力闘争(長屋王の変や藤原広嗣の乱など)に加え、大地震や干ばつ、さらには猛威を振るった天然痘の大流行により、政治の中枢から庶民に至るまで多くの命が奪われ、社会は深い不安と混乱に陥っていた。

この未曾有の国難を乗り越えるため、聖武天皇は仏教の持つ呪術的な力によって国家の安定と繁栄を図る鎮護国家(ちんごこっか)思想に深く傾倒していく。741年(天平13年)に「国分寺建立の詔」を発して全国に国分寺・国分尼寺の建立を命じたのに続き、743年(天平15年)、紫香楽宮(しがらきのみや)においてついに大仏造立の詔(だいぶつぞうりゅうのみことのり)を発布したのである。

行基の登用と挙国一致の巨大プロジェクト

詔において聖武天皇は、国家の財力だけでなく、広く民衆の「一枝の草、一把の土」を持ち寄る協力を求めた。しかし、高さ約15メートルにも及ぶ巨大な金銅仏を鋳造し、それを安置する大仏殿を建設するという前代未聞のプロジェクトは、多大な労力と資金を必要とし、農民への過酷な負担となることは明白であった。

そこで朝廷は、当時民間への布教活動を行い、民衆から絶大な支持を集めていた僧・行基(ぎょうき)を大僧正に任命し協力を要請した。かつて朝廷から弾圧されていた行基とその弟子たちが勧進(資金や資材の調達)に奔走したことで、大仏造立は単なる国家事業から、広く民衆の力を結集した巨大な国家的プロジェクトへと昇華したのである。

国際色豊かな盛大な儀式

度重なる都の移転や技術的困難を乗り越え、ついに東大寺に盧舎那仏(るしゃなぶつ)の銅像が鋳上がる。そして752年(天平勝宝4年)4月9日、大仏に瞳を描き入れて魂を入れる大仏開眼供養会(だいぶつかいげんくようえ)が挙行された。

この儀式は、日本古代史において類を見ないほど壮大かつ国際的なものであった。開眼の筆を執る導師を務めたのは、はるばるインドから来日した僧・菩提僊那(ぼだいせんな)である。法会には、聖武太上天皇、光明皇太后、孝謙天皇をはじめとする文武百官に加え、唐(中国)や林邑(ベトナム)、新羅などからの渡来僧を含む約1万人が参列したと伝えられる。大仏殿の庭では各国の音楽や舞踏(伎楽など)が披露され、シルクロードの終着点である平城京において、国際色豊かな天平文化がまさに最高潮に達した瞬間であった。

巨大事業の光と影

大仏開眼供養は、東アジアの国際社会において日本という律令国家が文化的・政治的に成熟したことを内外に強くアピールするものであった。大仏と東大寺は、天皇を頂点とする国家の権威の象徴として長く君臨することになる。

しかし一方で、この壮大な事業には暗い影も伴っていた。大仏の鋳造や表面の鍍金(金メッキ)、巨大な伽藍の造営に費やされた莫大な国家予算と人民の労働力は、律令国家の財政を著しく圧迫した。この多大な負担は、後の平安時代に向けた財政難や農民の逃亡を招く一因ともなり、華やかな天平文化の裏側に潜む律令制の矛盾を浮き彫りにする出来事でもあった。

最終更新:
2026年9月20日 @ 11:07

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