大仏開眼供養 (だいぶつかいげんくよう)
【概説】
752年(天平勝宝4年)に東大寺大仏殿において、完成した大仏に眼を描き入れて魂を迎えるために執り行われた儀式。聖武太上天皇や孝謙天皇をはじめ、国内外から一万数千人もの僧侶や参列者が集まった天平文化を象徴する国家規模の盛大な法会。
大仏造立の背景と開眼供養への道
奈良時代中期、聖武天皇は相次ぐ天災や疫病(天然痘)の流行、そして藤原広嗣の乱に代表される政治的不安を乗り越えるため、仏教の力によって国家の安定を図る鎮護国家の思想を推進した。その集大成として743年(天平15年)に「大仏造立の詔」を発布。紆余曲折を経て平城京の東大寺を本山とし、国力を挙げた巨大な廬舎那仏(大仏)の造立事業が開始された。
民間のカリスマであった僧・行基らの協力や、国内各地からの物資・労働力の結集により、752年(天平勝宝4年)に大仏の本体鋳造がほぼ完了した。大仏殿の建物や大仏表面への金メッキ(鍍金)など、全体としては未完成の部分を多く残していたが、聖武太上天皇の体調悪化などの事情もあり、先行して魂を吹き込む「開眼供養」が盛大に挙行されることとなった。
国際色豊かな儀式の実態と導師・菩提仙那
752年4月9日に執り行われた開眼供養は、極めて国際色豊かな国家的イベントであった。大仏の目に筆を入れ、魂を吹き込む大役である「開眼導師」を務めたのは、南インド出身の僧・菩提仙那(ぼだいせんな)であった。彼は唐の僧・道璿(どうせん)やベトナム(林邑)の僧・仏哲(ぶってつ)らとともに来日しており、当時の日本が東アジアの仏教ネットワークの一翼を担っていたことを物語っている。
儀式において、菩提仙那は聖武太上天皇に代わって開眼の筆を執った。この筆には数千メートルに及ぶ長い五色の「開眼の紐」が結ばれており、参列した皇族や貴族、僧侶たちがこれを持って大仏と一体化し、結縁(功徳を分かち合うこと)を願ったと伝えられている。
天平文化の到達点と歴史的意義
大仏開眼供養では、儀式の厳かさだけでなく、華やかな祝宴も催された。新羅などの外国使節や渡来人、国内各地から集まった官民の前で、唐楽、高麗楽、林邑楽といったアジア各地の歌舞音曲が奉納された。これは、日本の宮廷が極めて国際的な文化を受容していた証左である。
この大供養の際に使用された数々の儀式用具や、貴族たちが奉納した宝物は、現在も東大寺の正倉院に保管され、当時の高度な工芸技術を現代に伝えている。大仏開眼供養の成功は、日本が仏教国家としての体裁を国内外に広くアピールする契機となり、律令制の精神的支柱としての仏教の地位を不動のものとした。