東海・東山両道

高校日本史的重要度
★★

東海・東山両道 (とうかい・とうさんりょうどう)

1183年

【概説】
寿永二年十月宣旨によって、朝廷から源頼朝に対して事実上の支配権(沙汰権)が公認された東国の地域。古代の広域行政区分である東海道・東山道の諸国を指し、鎌倉幕府が東国支配権を確立する上で法的な出発点となった範囲である。

寿永二年十月宣旨による支配権の公認

治承・寿永の乱(源平合戦)の最中である1183年(寿永2年)、源義仲(木曾義仲)の軍勢が京都に入ったものの、乱暴狼藉を働き治安が悪化した。また、東国では荘園や公領からの年貢・官物が京都へ届かなくなり、朝廷や貴族の財政は破綻寸前に追い込まれていた。この状況下で、後白河法皇を中心とする朝廷は、鎌倉に拠点を置いていた源頼朝に接近し、妥協を図った。こうして出されたのが寿永二年十月宣旨である。この宣旨によって、頼朝は東海・東山両道の諸国において、従来の荘園領主や国司による支配(領掌)を元通りにし、年貢未進を取り締まる権限を与えられた。これにより、頼朝は朝廷から公的に東国の事実上の支配者(沙汰権の保持者)として認められることとなった。

対象地域の実態と勢力バランス

宣旨の対象となった「東海・東山両道」は、具体的には東海道(相模・駿河・遠江・三河・尾張など)および東山道(信濃・上野・下野など)の諸国を指す。ただし、同じ東山道であっても陸奥・出羽の両国は奥州藤原氏が独自の勢力を維持しており、この時点で頼朝の実質的な支配権が及んでいたわけではなかった(のちの奥州合戦を経て幕府の支配下に入る)。また、当時源義仲が地盤としていた北陸道は、この宣旨の対象から明確に除外されていた。これは、朝廷が頼朝と義仲の勢力圏を切り分け、頼朝に東国の治安維持を委ねることで、京都で横暴を極める義仲を圧迫・牽制しようとした政治的な意図が背景にあった。

東国政権の法自立化と鎌倉幕府への展開

東海・東山両道への支配権公認は、それまで「朝廷に背く反乱軍(私的武力)」とみなされかねなかった頼朝率いる武士団(東国政権)が、朝廷を頂点とする国家体制の中に公的な位置づけを得る決定的な画期となった。頼朝はこの公認を後ろ盾に、東国における地頭の原型となる組織や独自の軍事・行政網を整備していった。この両道支配の確立が土台となり、1185年の文治の勅許(守護・地頭の設置公認)や、1192年の征夷大将軍就任へと続く、鎌倉幕府(東国国家)誕生への確固たる歩みが進められることとなったのである。

最終更新:
2026年6月29日 @ 09:13

日本史一問一答(ランダム)

Q. 1876年、江華島事件を背景に日本が朝鮮と締結し、領事裁判権などを認めさせた朝鮮にとっての不平等条約は何か?
Q. 大岡忠相が編成した町火消のうち、江戸市中を「い・ろ・は…」の文字で区分して担当させた組織(グループ)の総称は何か?
Q. 徳川家康が豊臣包囲網の一環として天下普請で築城させ、のちに尾張徳川家の居城となった城はどこか?