文治の勅許

1185年、源頼朝が北条時政を京都に派遣して後白河法皇に要求し、諸国への守護・地頭の設置を公式に認めさせた許可を何というか?
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重要度
★★

【参考リンク】
文治の勅許(Wikipedia)

文治の勅許 (ぶんじのちょっきょ)

1185年

【概説】
鎌倉時代の1185年(文治元年)、源頼朝が後白河法皇から獲得した、全国に守護・地頭を設置する権利などの勅許(天皇の許し)。源義経追討を大義名分として朝廷に迫り勝ち取ったもので、武家政権による全国的な軍事・警察権の掌握を象徴する出来事。

義経・行家追討を口実とした強硬交渉

1185年(文治元年)3月、壇ノ浦の戦いで平氏が滅亡したのち、源頼朝と弟の源義経との対立が表面化した。義経は叔父の源行家とともに後白河法皇から頼朝追討の宣旨(院宣)を得て挙兵を試みたが、兵が集まらずに京都を没落した。頼朝はこの事態を好機と捉え、追討宣旨を出した朝廷に対して不信感をあらわにし、大軍を京都に送るとともに北条時政を交渉役として派遣した。時政は義経らの捜索・捕縛を名目に、諸国に守護、荘園や公領に地頭を設置する権限や、軍資金となる兵粮米(反別五升の段米)を徴収する権限を要求。朝廷側はこれを拒絶できず、同年11月に認可を与えた。これが「文治の勅許」である。

鎌倉幕府成立期をめぐる歴史的意義

文治の勅許は、日本中世における最大の転換点の一つである。かつては、頼朝が征夷大将軍に任じられた1192年をもって鎌倉幕府の成立とする見解が一般的であった。しかし現在では、この文治の勅許によって鎌倉政権が公的に全国規模の軍事・警察権(国家警察権)を獲得し、実質的な支配権を確立したとして、1185年を鎌倉幕府の成立年とする説(1185年説)が歴史学において極めて有力視されている。守護・地頭の設置により、それまで国司や荘園領主が独占していた現地の行政・司法権に武家が介入する道が開かれ、名実ともに武家社会の基礎が固まることとなった。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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