公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵

高校日本史的重要度
★★

【参考リンク】
男爵(Wikipedia)
無理やりすぎる?まあいいじゃんそういうの。公爵と侯爵の上下は気合で覚えろ!

爵は常用漢字ですがあまり書く機会がないので…… 

「爵」の書き方

公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵 (こうしゃく・こうしゃく・はくしゃく・ししゃく・だんしゃく)

1884年〜1947年

【概説】
1884(明治17)年の華族令によって制定された、近代日本における5つの爵位(身分階級)。旧公家や旧大名といった門閥、および国家に多大な貢献をした勲功者らに授与され、帝国議会における貴族院の土台となった特権的な身分制度である。

華族令の制定と「五等爵」導入の背景

明治政府は維新直後の1869(明治2)年、従来の公家と大名を統合して新たに華族という身分を創設した。しかし当初の華族制度は、旧大名と旧公家の間の経済的・政治的格差が大きく、制度として不安定な状態が続いていた。そこで1884(明治17)年7月7日、伊藤博文を中心とする政府は華族令を制定し、中国の古代制度やヨーロッパの貴族制度に倣った公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵の5つの爵位(五等爵)を創設した。

この制度導入の最大の目的は、1890年の開設が予定されていた帝国議会において、衆議院に対抗して天皇の藩屏(皇室の藩屏)となる貴族院を組織することにあった。自由民権運動の激化に危機感を抱く政府は、旧藩主や旧公家、さらに維新の功臣たちを強固な特権身分として組織し、近代天皇制の支配体制を安定させようとしたのである。

爵位の選定基準と勲功華族の創出

5つの爵位は、従来の家格(家柄)と、国家への「勲功(功績)」という2つの基準に基づいて厳格に授与された。最上位の公爵には、公家の最高格式である旧摂関家や、徳川宗家(将軍家)、明治維新に絶大な功績のあった三条実美岩倉具視などが選ばれた。続く侯爵には、旧清華家(公家)や、旧大藩(現米15万石以上)の知藩事、維新の功臣である木戸孝允大久保利通の遺族らが叙せられた。さらに、中規模の大名や旧公家は伯爵子爵に、小大名や交代寄合、分家などは男爵へと位置づけられた。

この制度の画期的な点は、門閥だけでなく、維新の元勲をはじめ軍人や官僚、さらには三井・三菱などの政商財閥)といった、近代国家建設に貢献した新興の実力者たちを「勲功華族」として取り込んだ点にある。これにより、藩閥政府の有力者たちは自身や一族を貴族階級へと昇格させ、支配体制の維持を図った。

華族の特権と制度の終焉

華族令によって爵位を与えられた人々には、強力な特権が保障された。最大の特権は、1889(明治22)年に発布された貴族院令に基づく政治的特権である。最高位の公爵と侯爵は、30歳に達すると自動的に貴族院議員(終身)となり、伯爵・子爵・男爵は同爵者同士の互選によって貴族院議員を選出した。また、宮内省(宗秩寮)の厳格な管理のもとで家政が保護され、「華族世襲財産法」によって家産の分散や没落を防ぐ経済的保護措置も取られた。

華族は近代日本において政官軍の要職を占め、社会の上流階級として君臨したが、第二次世界大戦での日本の敗戦によってその運命は一変する。1947(昭和22)年、GHQ連合国軍最高司令官総司令部)による戦後改革のもと、日本国憲法が施行された。同憲法第14条に「華族その他の貴族の制度は、これを認めない」と明記されたことで、五等爵の制度は完全に廃止され、華族は名実ともにその特権を失うこととなった。

最終更新:
2026年8月20日 @ 16:43

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