岩倉具視

一時は公武合体派として失脚したが、のちに倒幕派の公卿の中心となり、王政復古のクーデターを主導した人物は誰か?
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重要度
★★★★

岩倉具視 (いわくらともみ)

1825〜1883

【概説】
幕末から明治維新期にかけて活躍した討幕派の公家。薩摩藩や長州藩と結んで討幕の密勅を引き出し、王政復古の大号令を主導した人物。明治新政府においては右大臣を務め、岩倉使節団の特命全権大使として欧米を視察するなど、近代日本の国家体制構築に多大な影響を与えた。

下級公家からの台頭と和宮降嫁

岩倉具視は、下級公卿である堀河康親の次男として生まれ、のちに岩倉家の養子となった。嘉永6年(1853年)のペリー来航以降、幕末の動乱が始まると、朝廷の権威向上を目指して積極的に政治運動に参加した。安政5年(1858年)、幕府が求めた日米修好通商条約の勅許に対し、公家たちが反対した廷臣八十八卿列参事件において中心的な役割を果たしたことで、孝明天皇からの信任を得た。

その後は、幕府と朝廷の融和を図る公武合体運動を推進し、孝明天皇の妹である和宮の14代将軍徳川家茂への降嫁に尽力した。しかし、この行動が尊王攘夷派の志士たちから「佐幕派の奸物」とみなされ、文久2年(1862年)に弾劾されて辞官落飾(出家)を余儀なくされ、京都北郊の岩倉村での蟄居生活へと追い込まれた。

倒幕派への転換と王政復古

岩倉村での約5年間に及ぶ幽閉生活のなかで、岩倉は薩摩藩の大久保利通や土佐藩の中岡慎太郎ら討幕派の志士と密かに接触を重ね、次第に公武合体論から武力討幕論へと政治的立場を転換させていった。慶応3年(1867年)には、朝廷内の親幕府派を排除し、薩摩藩・長州藩に対して討幕の密勅を下す工作を主導した。

15代将軍徳川慶喜が先手を打って大政奉還を行い討幕の名分を奪おうとした際にも、岩倉は動じることなく、薩長を中心とする武力討幕の既成事実化を推し進めた。同年12月9日には王政復古の大号令を発令させ、幕府の廃止と新政府の樹立を宣言。同日夜に開かれた小御所会議においては、徳川慶喜の辞官納地(官職の辞任と領地の返上)を強硬に主張し、これに反対する土佐藩の山内豊信(容堂)らを論破して、旧幕府勢力を政治の中枢から完全に排除する方針を決定づけた。

岩倉使節団と近代国家への歩み

明治新政府が樹立されると、岩倉は参与、議定、そして右大臣といった中枢の要職を歴任した。新政府の基盤を固めるため、大久保利通や木戸孝允らとともに版籍奉還や廃藩置県といった急進的な中央集権化政策を後押しした。

明治4年(1871年)には、幕末に諸外国と結ばれた不平等条約の改正予備交渉および欧米の制度・文物の視察を目的とする岩倉使節団の特命全権大使に任命された。使節団は約1年半にわたってアメリカやヨーロッパ諸国を歴訪し、西洋の圧倒的な産業力や軍事力、近代的な法体制を直接目にした。この経験により、岩倉は条約改正を急ぐ前に国内の近代化(殖産興業や富国強兵)を優先すべきであるという強い確信を抱いて帰国した。

征韓論政変と立憲体制への布石

明治6年(1873年)に帰国した岩倉は、留守政府を主導していた西郷隆盛や板垣退助らによる征韓論(武力による朝鮮開国要求)に直面する。岩倉は大久保や木戸らとともに「内治優先」を掲げてこれに猛反対し、自身の策謀によって明治天皇の裁可を得て西郷らを下野させる明治6年の政変を引き起こした。その後は、大久保が主導する有司専制(官僚による専制政治)を右大臣として支え続けた。

晩年は、全国的に激化する自由民権運動に強い危機感を抱き、急進的なイギリス流の議院内閣制や民主的憲法の導入を退け、君主権の強いプロイセン(ドイツ)型の立憲君主制の導入を構想した。彼は井上毅に憲法制定の調査を命じ、のちの大日本帝国憲法制定への道筋をつけた後、明治16年(1883年)に58歳で病没した。彼の死に対し、明治政府は日本初となる国葬をもってその多大な功績を称えた。

岩倉具視: 幕末維新期の調停者 (日本史リブレット人)

幕末維新の激動期、公家から政治家へ転身し明治国家の礎を築いた岩倉具視の生涯を追う、歴史の核心に触れる一冊。

岩倉具視 読みなおす日本史

従来の評価を見直し、変革の時代に実務家として権力を振るった岩倉の真の姿を再構築する、読みなおし日本史の決定版。

最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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