第二次世界大戦
【概説】
1939年9月のドイツによるポーランド侵攻を機に勃発し、1945年まで続いた世界規模の戦争。日本、ドイツ、イタリアを中心とする枢軸国と、アメリカ、イギリス、ソ連などの連合国が激突し、人類史上最大の犠牲者を生み出した。日本史においては、日中戦争の泥沼化から太平洋戦争へと戦線が拡大し、大日本帝国の崩壊と戦後民主化への大転換をもたらした未曾有の総力戦である。
欧州での開戦と日本の「不介入」
1939年9月1日、アドルフ・ヒトラー率いるドイツ軍がポーランドに侵攻し、これに対してイギリス・フランスが宣戦布告したことで欧州戦線が火蓋を切った。当時、日本は1937年から続く日中戦争が泥沼化しており、さらに1939年には満州・モンゴル国境でソ連軍と激しい軍事衝突(ノモンハン事件)を起こし、大敗を喫していた。そのため、開戦時の阿部信行内閣は「欧州戦争には介入せず、専ら支那事変(日中戦争)の解決に邁進する」という不介入方針を声明した。しかし、欧州の激動は必然的にアジアの国際関係にも多大な影響を及ぼし、日本の外交政策を揺さぶることとなる。
ドイツの快進撃と日独伊三国同盟
1940年春、ドイツ軍は電撃戦で西ヨーロッパを席巻し、6月には大国フランスを降伏させた。このドイツの圧倒的な快進撃は、日本国内に「バスに乗り遅れるな」という強硬論や南進論を大いに刺激した。資源獲得と日中戦争の補給路遮断を目指す日本は、敗戦国フランスの植民地である北部仏印(フランス領インドシナ北部)に軍を進めた。さらに同年9月、第2次近衛文麿内閣は日独伊三国同盟を締結し、アメリカを仮想敵国とする枢軸国陣営の形成を明確にした。これにより、英米との関係は決定的な対立へと向かっていく。
太平洋戦争の勃発と「世界大戦」への一体化
1941年6月、ドイツがソ連に侵攻して独ソ戦が始まると、日本は同盟国でありながら中立を守る一方(日ソ中立条約)、代わって南部仏印への進駐を強行した。これに対し、アメリカは対日石油禁輸などの強硬な経済制裁(ABCD包囲陣)を発動。資源の枯渇を恐れた日本は日米交渉による事態打開を図るも決裂し、1941年12月8日、ハワイの真珠湾攻撃と英領マレー半島への上陸作戦を決行した。太平洋戦争(当時の日本側呼称は「大東亜戦争」)の勃発である。この数日後にはドイツ・イタリアもアメリカに宣戦布告し、孤立していた日中戦争・欧州戦線・太平洋戦線が完全に結びつき、地球全体を巻き込む真の意味での「第二次世界大戦」へと発展した。
総力戦の展開と連合国の反撃
この戦争は、前線の軍隊のみならず、各国の生産力や科学技術、国民生活のすべてを動員する凄惨な総力戦となった。日本は初期の作戦で東南アジア一帯を占領し、「大東亜共栄圏」の建設を掲げたが、1942年6月のミッドウェー海戦での大敗を機に戦局は悪化の一途をたどった。欧州でも、1943年のスターリングラード攻防戦でのドイツ軍の敗北や、同年のイタリア降伏により、枢軸国側の劣勢が明白となった。圧倒的な工業力と物量を誇るアメリカと、甚大な犠牲を払いながら反攻に転じたソ連を中心とする連合国は、東西から枢軸国を確実に追い詰めていった。
日本の敗北と大日本帝国の崩壊
1945年5月にドイツが無条件降伏し、欧州戦線は終結した。孤立した日本本土にはアメリカ軍による激しい無差別爆撃(本土空襲)が加えられ、沖縄戦では多くの民間人が地上戦に巻き込まれて犠牲となった。同年8月6日に広島、9日に長崎へ史上初の原子爆弾が投下され、さらに8月8日にはソ連が日ソ中立条約を破棄して満州に侵攻(対日参戦)した。抗戦能力を完全に喪失した日本は、8月14日に連合国のポツダム宣言受諾を決定し、翌15日の玉音放送によって国民に敗戦が知らされた。
同年9月2日、東京湾上の戦艦ミズーリ号において降伏文書に調印したことで、6年に及んだ第二次世界大戦は正式に終結した。この敗戦は、明治維新以来の大日本帝国と軍国主義の崩壊を意味し、日本がGHQの占領下で民主化や平和国家へと生まれ変わり、やがて冷戦構造という新たな国際秩序へ組み込まれていく、日本史上の最大の転換点となった。