中浦ジュリアン

高校日本史的重要度
★★

中浦ジュリアン (なかうらじゅりあん)

1568年頃〜1633年

【概説】
安土桃山時代から江戸時代初期にかけて活躍したキリシタン武士、神父。天正遣欧使節の副使としてローマへ派遣され、帰国後は激しい迫害の中で布教を続け、最終的に長崎で殉教を遂げた歴史的知識を有する人物である。

天正遣欧使節としての渡欧とキリスト教世界の目撃

中浦ジュリアンは、肥前国中浦(現在の長崎県西海市)のキリシタン領主の家に生まれた。有馬のセミナリヨ(小神学校)で学び、イエズス会の巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノの提案によって、九州のキリシタン大名(大友宗麟・大村純忠・有馬晴信)が派遣する天正遣欧使節の副使(正使は伊東マンショ、千々石ミゲル、副使は中浦ジュリアン、原マルチノ)に選ばれた。

1582年に日本を出発した使節団は、苦難の航海を経てヨーロッパに到達した。ポルトガル、スペイン、イタリアの各地で大歓迎を受け、ローマ教皇グレゴリウス13世への謁見という大役を果たす。ジュリアンはローマ滞在中に熱病にかかりながらも、強い信仰心と意志でその使命を全うし、西欧社会に「日本」という存在を広く知らしめる役割を果たした。

禁教下の潜伏宣教と「穴吊り」の殉教

1590年に帰国した使節団を待ち受けていたのは、豊臣秀吉によるバテレン追放令が出され、キリスト教への風当たりが強まりつつある日本の現実であった。ジュリアンはマカオに渡って神学を修め、1608年に神父(司祭)に叙階された。これは日本人として極めて初期の司祭誕生であった。

江戸幕府によるキリスト教禁教令が本格化し、多くの外国人宣教師が追放・処刑される中、ジュリアンは潜伏して九州各地の信徒を励まし、密かに宣教活動を続けた。しかし、1632年に小倉で捕らえられ、長崎へと送られた。翌1633年、長崎の西坂において、拷問として悪名高い「穴吊りの刑」に処された。数日間に及ぶ凄惨な拷問の最中、彼は「私はローマへ行った中浦ジュリアン神父である」と言い残し、信仰を捨てることなく殉教した。その不屈の生涯と信仰心は後世に語り継がれ、2008年にはカトリック教会から「福者」に列せられた。

最終更新:
2026年6月16日 @ 07:04

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