伊東マンショ (いとうまんしょ)
【概説】
安土桃山時代から江戸時代初期にかけて活躍したキリシタン。イエズス会の巡察師ヴァリニャーノの提案により派遣された天正遣欧使節の正使として、ヨーロッパに渡りローマ教皇に謁見した人物である。帰国後は司祭に叙階され、禁教へと向かう困難な時代の中で日本における布教活動に尽力した。
天正遣欧使節への抜擢と出自
伊東マンショは、日向国(現在の宮崎県)の戦国大名・伊東義祐の外孫として生まれた。彼の母親は豊後国の有力大名である大友宗麟の姪にあたる。島津氏の侵攻によって日向を追われた伊東一族は、縁戚である大友氏を頼って豊後へと逃れ、マンショはこの地でキリスト教に触れ洗礼を受けた。
1582年(天正10年)、イエズス会の東インド巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノは、日本の若者をヨーロッパに派遣する計画を立案した。これは、ヨーロッパのキリスト教世界に日本の有望なキリスト教徒を紹介することで布教の経済的・精神的援助を引き出すとともに、日本の若者にヨーロッパの偉大さを体験させ、帰国後にその見聞を語らせることで布教活動を有利に進めるという二重の目的があった。この天正遣欧使節において、マンショは大友宗麟の名代としての役割を担い、千々石ミゲル(大村純忠・有馬晴信の名代)とともに正使に抜擢されたのである。他の使節メンバーには、副使として中浦ジュリアンと原マルチノが選ばれた。
ヨーロッパでの熱狂的歓迎と教皇謁見
使節団は長崎を出帆後、マカオやゴアなどを経由する長く過酷な航海の末、1584年にヨーロッパ(ポルトガルのリスボン)へと到達した。当時のヨーロッパは宗教改革の嵐が吹き荒れており、カトリック教会はプロテスタントの台頭に対抗するため、非ヨーロッパ世界への布教成果を大々的にアピールする必要に迫られていた。そのため、極東の未知なる国・日本から訪れた気品ある少年使節団は、カトリック世界から熱狂的な大歓迎を受けることとなった。
スペインのマドリードで国王フェリペ2世に歓待されたのち、1585年にイタリアのローマへと入城した使節団は、ついにローマ教皇グレゴリウス13世との謁見を果たした。教皇は彼らを我が子のように抱擁してその長旅を労い、マンショらは日本のキリシタン大名からの親書を手渡して絶対的な恭順を示した。グレゴリウス13世の没後は、後継の教皇シクストゥス5世の戴冠式にも参列し、ローマ市民権を与えられるなど、彼らのヨーロッパ滞在は外交的・宗教的に大成功を収めたのである。
激変した祖国への帰還と秀吉への謁見
1590年(天正18年)、8年半に及ぶ長旅を終えてマンショらは長崎に帰港した。彼らはヨーロッパからグーテンベルクの活版印刷機や西洋楽器、海図などをもたらし、日本の初期洋学や「キリシタン版」と呼ばれる書物の出版に多大な貢献をした。しかし、彼らが留守にしていた間に、祖国・日本のキリスト教を取り巻く情勢は劇的に悪化していた。1587年に豊臣秀吉がバテレン追放令を発布し、キリスト教の布教が制限される時代へと突入していたのである。
帰国翌年の1591年、ヴァリニャーノに伴われたマンショらは、京都の聚楽第で天下人・豊臣秀吉に謁見した。この際、マンショらはジョスカン・デ・プレの曲などを西洋楽器で合奏し、秀吉を大いに喜ばせたという記録が残っている。秀吉は彼らを気に入り仕官を勧めたとされるが、マンショらは信仰を理由にこれを丁重に辞退した。
司祭への叙階と晩年
秀吉への謁見後、マンショらは本来の目的である聖職者への道を歩むため、天草のコレジオ(神学校)などでラテン語や神学の勉学に励んだ。しかし、秀吉の死後に覇権を握った徳川家康の下でもキリスト教への風当たりは徐々に強まり、宣教師や信徒への弾圧が激化していくことになる。
そのような逆境の中、マンショは1608年(慶長13年)に長崎で念願の司祭(神父)に叙階された。その後は小倉や山口などで迫害の危険に晒されながらも信徒の司牧に奔走したが、過酷な潜伏生活が祟ったのか、江戸幕府による全国的な禁教令(1614年)が発布される直前の1612年(慶長17年)、長崎において病のために43歳ほどの生涯を閉じた。天正遣欧使節という華々しい歴史の表舞台に立ちながらも、時代の荒波に翻弄され、最後まで信仰に身を捧げた彼の生涯は、日本のキリスト教史における栄光と悲劇を象徴していると言える。