大友義鎮(大友宗麟) (おおともよししげ / おおともそうりん)
【概説】
戦国時代から安土桃山時代にかけて豊後(現在の大分県)を本拠とした戦国大名で、大友氏の最盛期を築いた当主。南蛮貿易を積極的に推し進めるとともに自らもキリスト教の洗礼を受け、代表的な「キリシタン大名」として知られる。晩年は新興の島津氏に圧迫され、豊臣秀吉の九州平定を導く契機を作った。
家督相続と大友氏の最盛期
大友義鎮(後の宗麟)は、豊後の守護大名・大友義鑑の長男として生まれた。1550(天文19)年、父の義鑑が家臣の反逆によって暗殺される「二階崩れの変」が勃発し、これに伴い21歳で家督を相続した。家中の混乱を速やかに収拾した義鎮は、周辺国人層の掌握を進め、北九州へと勢力を拡大していった。
当時、中国地方で覇権を確立しつつあった毛利元就と北九州の覇権を巡って激しく対立したが、将軍・足利義輝の仲介などを経て和睦した。大友氏は豊後・豊前・筑後・筑前・肥前・肥後の北九州6か国に覇を唱え、室町幕府からは九州探題に任じられるなど、大友氏の歴史における最大の版図と最盛期を現出させた。
南蛮貿易の振興と国際都市・府内
義鎮の治世で特筆すべきは、積極的な対外交流である。1551(天文20)年、山口から逃れてきたイエズス会宣教師のフランシスコ=ザビエルを本拠地である豊後の府内(現在の大分市)に引見し、領内でのキリスト教の布教を許可した。これを機にポルトガル船が府内に頻繁に寄港するようになり、南蛮貿易が本格化した。
義鎮の最大の目的は、南蛮船がもたらす鉄砲や硝石といった軍需物資の獲得であったが、宣教師を保護したことで府内には南蛮文化が流入した。日本初の西洋式病院や孤児院、ハンセン病の療養所などが設立され、府内は国際色豊かな繁栄を謳歌することとなった。
キリスト教への帰依とキリシタン大名
長らく宣教師を保護しつつも自らの改宗はためらっていた義鎮であったが、1562(永禄5)年に入道して「宗麟」と号した後、1578(天正6)年に正式にキリスト教の洗礼を受けた。洗礼名は「ドン=フランシスコ」である。この改宗により、宗麟は日本を代表するキリシタン大名となった。
宗麟は領内の神社仏閣を破壊し、家臣にも改宗を強要するなど急進的な宗教政策をとったため、仏教を信仰する旧来の家臣や国人領主との間に深い軋轢を生むこととなった。1582(天正10)年には、九州の他のキリシタン大名である大村純忠・有馬晴信とともに、ローマ教皇へ向けて天正遣欧使節を派遣している。
耳川の戦いと大友氏の衰退
洗礼を受けた1578(天正6)年、宗麟はキリスト教の理想国を建設する目的も兼ねて日向(現在の宮崎県)への大規模な遠征を敢行した。しかし、南九州から勢力を伸ばしてきた島津義久の軍勢と激突した耳川の戦いにおいて、大友軍は壊滅的な大敗を喫した。
この敗戦によって多くの有力武将を失い、さらに急進的なキリスト教保護政策への反発も相まって、配下の国人領主たちが次々と離反した。大友氏の支配体制は急速に崩壊し、肥前の龍造寺隆信や薩摩の島津氏に領土を蚕食され、衰退の一途をたどることになる。
豊臣秀吉への臣従と晩年
1586(天正14)年、九州制覇を目指す島津氏の軍勢が豊後にまで侵攻(豊薩合戦)し、大友氏は滅亡の危機に瀕した。宗麟は自ら大坂城へ赴いて豊臣秀吉に謁見し、島津氏の脅威を訴えて救援を懇願した。これを受けた秀吉は翌1587年に大軍を率いて九州へ下り、九州平定を成し遂げた。
秀吉の介入によって大友氏は滅亡を免れ、宗麟の嫡男・大友義統(よしむね)に豊後一国が安堵された。しかし、かつての広大な領国は失われ、宗麟自身も秀吉の九州平定完了の直後、病により58歳の生涯を閉じた。