バテレン追放令(宣教師追放令)

1587年、キリスト教による一揆や領地寄進を警戒した秀吉が、博多で発布した宣教師の国外退去を命じる法令を何というか?
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バテレン追放令(宣教師追放令)

1587年

【概説】
1587年(天正15年)、豊臣秀吉が九州平定の直後に発布した、キリスト教の宣教師(バテレン)に対して国外退去を命じた法令。キリスト教が持つ宗教的結束力や植民地化の危険性を警戒して布教を禁じる一方で、南蛮貿易自体は引き続き奨励するという二面性を持っていた。

秀吉のキリスト教政策の転換と背景

豊臣秀吉は当初、主君であった織田信長の政策を踏襲し、キリスト教に対して寛容な態度をとっていた。イエズス会の宣教師とも友好的に接し、彼らがもたらす南蛮貿易の利益や鉄砲などの軍事物資を重視していたからである。しかし、1587年(天正15年)の九州平定の過程で、秀吉は自身の認識を大きく改めることとなる。

九州へ自ら出向いた秀吉は、キリシタン大名である大村純忠によって長崎がイエズス会に寄進され、一種の教会領のようになっている事実を知り、強い警戒感を抱いた。さらに、熱心な信徒による神社仏閣の打ちこわしや、ポルトガル商人による日本人奴隷の海外売買などの実態を目の当たりにした。かつて石山本願寺などの一向一揆に苦しめられた経験から、秀吉はキリスト教が持つ強力な宗教的結束力が、自らの推進する天下統一および兵農分離・大名統制の大きな障害になると判断したのである。

追放令の発布と南蛮貿易の扱い

1587年6月19日、秀吉は筑前国箱崎(現在の福岡市)において、宣教師の国外退去を命じるバテレン追放令を発布した。この法令では、日本を「神国」と規定した上で、宣教師(バテレン)が日本の宗教や社会秩序を破壊する存在であると非難し、20日以内に日本から退去することを命じた。

また同時に、大名がキリスト教に入信することを制限し、秀吉の許可制とした。この時、播磨国明石の領主であったキリシタン大名の高山右近は、秀吉の再三の説得にもかかわらず信仰を捨てることを拒否したため、所領を没収(改易)されている。一方で、一般民衆の個人的な信仰については特段の制限を設けなかった。

この追放令の最大の特徴は、布教活動を禁じる一方で、南蛮貿易の継続は許可し、奨励した点にある。秀吉は貿易がもたらす莫大な富や物資を手放す気はなく、商人と宣教師を明確に切り離そうと試みた。これは、宗教統制と経済的利益の両立を図った秀吉の現実主義的な判断であったと言える。

不徹底な実態とサン=フェリペ号事件への展開

バテレン追放令は、時の最高権力者がキリスト教の布教を公的に禁じた初の法令として重要な歴史的意義を持つが、その実態は極めて不徹底なものであった。貿易が許可されていたため、多くの宣教師たちはポルトガル商人に紛れて密かに日本に留まるか、平戸などの地方に一時的に姿を隠すだけで布教活動を継続した。秀吉自身も、貿易の利益を優先して宣教師の潜伏を半ば黙認していた。

しかし、天下統一を成し遂げた後の1596年(慶長元年)、土佐国(高知県)にスペイン船が漂着するサン=フェリペ号事件が発生する。この際、スペイン船員が「宣教師の派遣はスペインの領土拡張の先兵である」と発言したとされることが秀吉の耳に入り、キリスト教に対する警戒が再び頂点に達した。

これを受けて秀吉は本格的な弾圧へと舵を切り、翌1597年には長崎で宣教師や信徒らを処刑する日本二十六聖人殉教を引き起こすこととなる。バテレン追放令は、やがて豊臣政権から江戸幕府へと受け継がれていく強硬なキリスト教禁制(禁教令)と鎖国体制への端緒となったのである。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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