スペイン(江戸時代における関係)
【概説】
江戸時代初期における、江戸幕府とカトリック国スペインとの外交および通商関係。当初、幕府は貿易利益を求めて交流を深めたが、スペイン側が通商以上にキリスト教の布教を優先したため幕府から領土的野心を警戒され、1624年(寛永元年)にスペイン船の来航が全面禁止された。
家康初期の積極的な対スペイン外交
徳川家康は幕府を開いた当初、富国強兵と経済発展のために海外貿易を積極的に推進した。すでに長崎などで貿易を行っていたポルトガルに加え、フィリピンのマニラを拠点とするスペイン(イスパニア)とも通商関係の構築を図った。家康は、スペイン領メキシコ(ノエバ・エスパーニャ)との直接貿易や、スペインが持つ進んだ鉱山技術(アマルガム法など)の導入を熱望していた。
1609年には前フィリピン臨時総督ドン・ロドリゴが上総国に漂着したことを契機に外交交渉が持たれ、1611年には答礼使としてセバスティアン・ビスカイノが来日した。また、1613年には仙台藩主・伊達政宗が支倉常長を正使とする慶長遣欧使節をスペイン国王およびローマ教皇のもとへ派遣するなど、17世紀初頭の両国関係は一時的に大いなる進展を見せていた。
キリスト教布教への警戒とプロテスタント諸国の台頭
しかし、スペイン側の最大の目的は日本との通商以上に、フランシスコ会やドミニコ会などの修道会を通じたカトリックの布教であった。彼らは日本側に貿易の見返りとして布教の自由を強硬に要求したため、キリスト教が既存の封建秩序や幕府の権威を脅かすことを危惧する幕府との間に徐々に摩擦が生じるようになった。
さらに、1600年のリーフデ号漂着以降、プロテスタント国であるオランダやイギリスが日本に進出してくると事態は大きく変化する。通商のみを目的とするオランダやイギリスは、「カトリック国であるスペインやポルトガルは、布教を隠れ蓑にして信徒を操り、ゆくゆくは日本の領土を奪う野心を持っている」と幕府に強く警告した。自国の貿易独占を狙う彼らの情報提供は、幕府のスペインに対する警戒感を決定的に高める要因となった。
1624年の来航禁止と歴史的意義
幕府のキリスト教に対する不信感は限界に達し、1612年に直轄領に禁教令を発布、1614年にはこれを全国に拡大して宣教師や高山右近らをマカオやマニラに追放した。それでもスペイン領のマニラからは、弾圧下にある日本の信徒を支援するために宣教師の密入国が後を絶たなかった。この事態を重く見た第2代将軍・徳川秀忠は、スペインとの関係において布教と貿易を切り離すことは不可能と判断し、ついに1624年(寛永元年)、スペイン船の来航を全面的に禁止した。
同じカトリック国であるポルトガルが、マカオからの生糸貿易によって日本に莫大な利益をもたらしていたために1639年まで来航が許されていたのに対し、スペインは貿易の比重が低く布教活動に傾注していたため、15年も早く関係が断絶されることとなった。スペイン船の来航禁止は、のちに「鎖国」と呼ばれる幕府の対外政策において、特定の西洋国家を完全に排除した最初の事例である。これは、幕府がキリスト教の排除を国家体制維持の最優先課題に据えたことを明確に示しており、その後の厳しい海禁政策の確立を方向づける重要な歴史的転換点となった。