貿易章程

日米修好通商条約に付属して結ばれた、具体的な関税率や輸出入の手続きなどの細かいルールを定めた規則を何というか?
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重要度
★★

貿易章程 (ぼうえきしょうてい)

1858年

【概説】
日米修好通商条約の調印に伴い、同条約の付属文書として合意された、具体的な関税率や輸出入の手続きなどの細則を定めた規則。日本が関税を自主的に決定できない協定関税制の具体的な出発点となった史料。

日米修好通商条約の「付属文書」としての役割

1858年(安政5年)、江戸幕府とアメリカ総領事ハリスとの間で日米修好通商条約が締結された。この条約は日本が鎖国を解いて本格的な開国へと踏み出す契機となったが、条約本体に盛り込まれたのは自由貿易の原則や領事裁判権(治外法権)の承認、開港場の設定といった基本方針であった。これに対し、日米間で行われる具体的な貿易実務や関税率などを細かく規定したのが、付属文書である貿易章程(日米貿易章程)である。

幕府側の全権である井上清直・岩瀬忠震とハリスによる交渉を経て作成され、条約本体と同日に調印された。この内容は、同年にイギリス、フランス、オランダ、ロシアと結ばれた安政五カ国条約においても、ほぼ同様の形で踏襲されることとなった。

初期の関税率規定と日本経済への影響

貿易章程における最大の問題は、日本側に関税自主権がなく、関税率を相手国との合意によって決める「協定関税制」が採用された点にある。しかし、この1858年段階の貿易章程では、税率は一律ではなく物品に応じて4つの区分が設けられていた。

具体的には、金銀地金などの免税品(第1類)、日本の輸出品や造船材料などの5%(第2類)、酒類などの35%(第3類)、そしてこれら以外の一般的な輸出品・輸入品に対する20%の通常関税(第4類)である。この段階では、主要な工業輸入製品に20%の関税を課すことができていたため、のちの時代に比べれば、国内産業を保護する防壁としての機能をある程度は有していた。

「改約約書」による関税引き下げへの予兆

しかし、この貿易章程で定められた関税体系は長くは続かなかった。幕末の攘夷運動に伴う外国人の殺傷事件や、1864年の四国艦隊下関砲撃事件に対する賠償交渉において、欧米列強は幕府に対して軍事的・外交的圧力を加えた。

その結果、慶応2年(1866年)に締結された改約約書(税則約書)により、貿易章程の関税率は大幅に改定されることとなる。これによって従来の従価税から従量税へと改められ、輸入品の関税率は一律5%へと激減した。これにより日本の関税自主権喪失は決定的なものとなり、安価な外国製綿織物が大量に流入して国内の手工業に大打撃を与え、幕末の激しいインフレーションと社会混乱をまねく要因となった。歴史的に見て、1858年の貿易章程は、明治政府がその後半世紀以上にわたって取り組むことになる「条約改正(関税自主権の回復)」の出発点として位置づけられる。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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