大村純忠 (おおむらすみただ)
【概説】
肥前国の戦国大名であり、日本で最初のキリシタン大名。南蛮貿易による莫大な利益と軍事支援を求めてキリスト教に入信し、長崎を開港してイエズス会に領地を寄進した。彼の政策は、長崎が日本における国際貿易とキリスト教の中心地として発展する決定的な契機となった。
肥前大村氏の家督相続と内憂外患
大村純忠は、島原半島を拠点とする有力大名・有馬晴純の次男として生まれた。のちに大村純前の養子となり、肥前大村氏の家督を継承する。しかし、この縁組は純前の実子である又次郎(のちの後藤貴明)を他家へ追いやる形で行われたため、家中や周辺国衆の激しい反発を招いた。当時の西肥前は、急速に勢力を拡大する龍造寺隆信や、平戸を拠点とする松浦氏などの脅威に晒されており、純忠の領国経営は発足当初から極めて不安定な状態にあった。
南蛮貿易の誘致とキリスト教への入信
脆弱な領国基盤を強化するため、純忠はポルトガル船がもたらす富と強力な火器(鉄砲や大砲)に活路を見出した。当時、ポルトガル船の寄港地であった平戸では、領主の松浦氏とイエズス会との間で対立が生じていた。純忠はこの機に乗じて宣教師を保護し、1562年に自領の横瀬浦(よこせうら)を提供して貿易港として開港した。
翌1563年、純忠はイエズス会宣教師コスメ・デ・トルレスから洗礼を受け、洗礼名「ドン・バルトロメオ」を名乗った。これが日本における最初のキリシタン大名の誕生である。彼の入信には純粋な宗教的関心もあったとされるが、最大の目的は、キリスト教を保護することでポルトガル船による貿易を独占し、武器の調達やイエズス会を通じた政治的・軍事的支援を確保することであった。
長崎の開港とイエズス会への寄進
横瀬浦が家臣の反乱により焼失した後、純忠は新たな貿易港の選定に迫られた。福田などを経て、1570年に波のおだやかな天然の良港である長崎(当時は寒村であった)を開港し、ポルトガル船の安定した寄港地として町立てを行った。これにより、長崎は南蛮貿易の拠点として急速に発展していく。
しかし、1580年になると、佐賀の龍造寺隆信による軍事的圧迫がいよいよ限界に達した。国主としての存亡の危機に立たされた純忠は、長崎と茂木(もぎ)の地をイエズス会に寄進するという重大な決断を下す。これにより長崎は、教会が行政・司法権を握る一種の「要塞都市」かつ「教会領」となった。純忠にとってこの寄進は、イエズス会という国際的な権威を盾にすることで、龍造寺氏などの他国からの侵略を防ぐ苦肉の安全保障策であった。
天正遣欧少年使節と純忠の晩年
1582年、純忠はイエズス会巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノの勧めに従い、大友宗麟、有馬晴信とともに天正遣欧少年使節をローマ教皇のもとへ派遣した。この使節には、純忠の甥である千々石ミゲルも正使として参加している。これは、キリスト教世界に日本の存在をアピールすると同時に、さらなる支援を引き出すための壮大な外交プロジェクトであった。
1587年、豊臣秀吉による九州平定が行われると、純忠は病身のため嫡男の喜前(よしあき)を参陣させ、本領を安堵された。しかし純忠自身は同年、秀吉が発布したバテレン追放令や、それに伴う長崎の直轄化(没収)の報を聞くことなく、病によりこの世を去った。彼の統治下で蒔かれたキリスト教と国際貿易の種は、その後の日本の対外関係史において極めて重要な役割を果たすこととなる。