関孝和 (せきたかかず)
【概説】
江戸時代中期に活躍し、「算聖」と称された日本を代表する和算家。独自の文字式を用いた筆算による代数学「点竄術」を創始するなど、日本の数学を世界最高水準にまで引き上げた。
和算の普及と「算聖」の登場
江戸時代初期、吉田光由が著した『塵劫記(じんこうき)』が大流行したことにより、日本国内では身分を問わず数学(和算)に対する関心が飛躍的に高まっていた。こうした知的水準の向上を背景にして、江戸時代前期から中期にあたる元禄期に登場したのが関孝和である。
関は上野国(現在の群馬県)または江戸の生まれとされ、甲府藩主であった徳川綱豊(後の6代将軍・徳川家宣)に仕えたのち、幕臣として勘定吟味役などを務めた武士であった。実務の傍らで中国の数学書を深く研究した彼は、当時の数学が抱えていた限界を打ち破り、日本独自の高度な数学体系を構築していくこととなる。
点竄術(てんざんじゅつ)の創始による代数学の革新
関孝和の最大の功績は、「点竄術(てんざんじゅつ)」と呼ばれる独自の代数学を創始したことである。当時、中国から伝来した「天元術」という計算手法が存在したが、これは算木(さんぎ)と呼ばれる木製の計算棒を盤上に並べて計算を行うものであり、一元(未知数が一つ)の方程式しか解くことができないという物理的・視覚的な限界があった。
これに対し、関は算木などの道具に頼らず、紙と筆を用いて文字記号で数式を表現する手法を考案した。これにより、複数の未知数を持つ連立方程式などを自由に書き表し、演算を展開することが可能となった。西洋における代数学と同様の記号計算を独自に確立したことは、日本の数学史における革命的なブレイクスルーであった。
同時代のヨーロッパに匹敵する世界的業績
関孝和の数学的探究は代数学にとどまらず、多岐にわたる領域で世界最高水準の業績を残している。連立一次方程式の解を求める過程で、西洋のゴットフリート・ライプニッツよりも早く、あるいはほぼ同時期に「行列式」の概念に到達していたことは特に有名である。
また、彼は「円理(えんり)」と呼ばれる分野を開拓した。正13万1072角形を用いて円周率を計算し、小数第11位まで正確な値を導き出している。さらに、曲線の長さや立体図形の体積を求めるために、現代の微積分学に繋がる極限の概念を用いた手法にも着手していた。他にも「ベルヌーイ数」の発見など、当時の鎖国下の日本において、ニュートンやライプニッツといったヨーロッパの天才数学者たちと肩を並べる水準の真理を独自に見出していたことは驚異的である。
関孝和の歴史的意義と「関流」の系譜
関孝和は自らの業績を『発微算法(はつびさんぽう)』などの著作にまとめたが、彼の学問は高弟である建部賢弘(たけべかたひろ)らに受け継がれ、さらに洗練されていった。建部らは8代将軍・徳川吉宗の時代に実学を重んじる気風のなかで活躍し、関を祖とする「関流」は江戸時代における和算の最大流派として全国を席巻した。
関孝和によって確立された高度な和算の体系は、一部の知識人だけでなく、遊歴の和算家や算額(神社仏閣に奉納された数学の問題や解法を描いた絵馬)を通じて日本全国の庶民にまで広く浸透した。この江戸時代における数学的素地の成熟こそが、幕末から明治維新にかけて日本が西洋の近代科学や数学を急速かつスムーズに受容できた最大の要因の一つとして高く評価されている。