原マルチノ (はらまるちの)
【概説】
安土桃山時代から江戸時代初期にかけて活躍したキリシタンにして、天正遣欧使節の副使。優れた語学の才能を発揮してヨーロッパ諸国との交流を支え、帰国後およびマカオ追放後は翻訳や文筆活動を通じてキリスト教の布教と東西文化の架け橋として貢献した知識人である。
天正遣欧使節への抜擢と抜群の語学力
原マルチノは肥前国(現在の長崎県)のキリシタンの家系に生まれた。イエズス会が宣教師育成のために設立した初等教育機関であるセミナリヨで学び、そこでラテン語をはじめとする外国語に極めて優れた才能を示した。この語学力が評価され、1582年に巡察使ヴァリニャーノが企画した天正遣欧使節の副使(伊東マンショ、千々石ミゲルが正使、中浦ジュリアンとともに副使)に抜擢された。
使節団はヨーロッパ各地で大歓迎を受け、ローマ教皇グレゴリウス13世との謁見などを果たした。この旅の途中、マルチノはトスカーナ大公国(フィレンツェ)などでラテン語による演説や謝辞を述べ、その流暢さと高い教養によって、ヨーロッパの人々に日本人の知的水準の高さを示す大役を果たした。
激動の日本とキリスト教禁教への直面
1590年に帰国した使節団を待ち受けていたのは、豊臣秀吉によるバテレン追放令(1587年)後の緊迫した情勢であった。マルチノらは秀吉に謁見し、ヨーロッパから持ち帰った活版印刷機や西洋楽器を披露して懐柔を試みた。その後、イエズス会に入会したマルチノは司祭となるための修行を積み、1608年には日本国内で司祭(神父)に叙階された。
しかし、江戸幕府によるキリスト教弾圧は厳しさを増し、1612年の天領への禁教令、翌1613年の全国へのキリスト教禁止令へと発展した。これにより、1614年にマルチノは多くのキリシタン宣教師や高山右近らとともに、ポルトガル領のマカオへと追放されることとなった。
マカオ追放と語学力を生かした文化的業績
国外追放されたマルチノであったが、キリスト教の情熱と学術への情熱は衰えなかった。追放先のマカオにおいて、持ち前の語学力を最大限に活かし、キリスト教の教理書や各種文学、辞書などの翻訳・編纂活動に尽力した。
特に、ジョアン・ロドリゲスが著した『日本大文典』の編纂を助けたほか、日本のキリシタン史や教会の活動記録の翻訳・校訂に携わったことは、当時の日本の状況をヨーロッパに正確に伝える貴重な資料を残すことにつながった。激動の時代に翻弄されながらも、東洋と西洋の言語文化を繋ぐ知的媒介者として、その生涯をマカオの地で閉じた。