人権新説

高校日本史的重要度
★

【参考リンク】
加藤弘之(Wikipedia)

人権新説 (じんけんしんせつ)

1882年

【概説】
明治時代中期の学者・加藤弘之が1882年に著した思想書。かつて自らが主唱した天賦人権説を否定し、社会ダーウィニズム(社会進化論)の立場から国家権力の絶対性や優勝劣敗の法則を説いた。

天賦人権説からの転向と社会進化論の導入

著者である加藤弘之は、明治初期に『真政大意』や『国体新論』などを著し、西洋の天賦人権思想を日本に紹介した先駆的な啓蒙思想家であった。しかし、1870年代後半から自由民権運動が激化し、急進的な平等主義や政府批判が台頭すると、加藤は社会秩序の崩壊に強い危機感を抱くようになった。

そこで加藤は、西欧の最新科学思想であった自然科学の進化論、およびそれを社会・歴史に適用したヘッケルやスペンサーらの社会ダーウィニズム(社会進化論)を導入した。人間社会も自然界と同様に「優勝劣敗」および「適者生存」の原則に支配されており、人間の権利は生まれながらに等しく与えられたものではなく、歴史的な適者生存の闘争を経て国家(法)によって認められたものであると主張した。この思想的「転向」のもと、天賦人権説を妄想として排撃した書が『人権新説』である。

「人権論争」の勃発と明治政府への思想的寄与

『人権新説』の刊行は、自由民権派の理論的根拠を根底から覆すものであったため、当時の言論界に激しい論争を巻き起こした。これを「人権論争」と呼ぶ。民権派の代表的論客であった植木枝盛(『天賦人権弁』)や馬場辰猪(『天賦人権論』)、矢野龍渓らが加藤の学説に猛反論し、天賦人権説の正当性を再確認しようとした。

しかし、東京大学綜理(総長)などの要職を歴任した加藤によるこの言説は、藩閥政府が進める官僚主導の国家建設(有司専制)や、後の大日本帝国憲法制定に向けた君主権強化の動きに強力な理論的支柱を与えることとなった。本書は、明治初期の「自由・平等」を重んじる啓蒙思潮から、国家の秩序や国力を重視する「国家主義」へと日本の近代思想が大きくシフトしていく契機となった点で、歴史的な重要性を持っている。

最終更新:
2026年6月16日 @ 07:32

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