矢野龍渓(矢野文雄) (やのりゅうけい(やのふみお)
【概説】
明治時代の官僚、政治家、ジャーナリストであり、先駆的な政治小説『経国美談』の著者として知られる知識人。大隈重信の側近として立憲改進党の結成に深く関わる一方、文学を通じて自由民権運動の気運を大いに盛り上げた。
慶應義塾での学びと立憲改進党への参画
矢野龍渓(本名:文雄)は豊後国(現・大分県)の佐伯藩士の家に生まれた。大阪の適塾などを経て慶應義塾に学び、塾長である福澤諭吉の強い影響を受けた。卒業後は『郵便報知新聞』の主筆としてジャーナリズムの世界で活躍したのち、大隈重信に認められて大蔵省や統計院の官僚として登用された。
しかし、1881年(明治14年)に発生した明治十四年の政変によって大隈重信が政府を追われると、矢野も官職を辞して下野した。翌1882年には、大隈を党首とする立憲改進党の結成に参画し、共同野党として自由民権運動の一翼を担うこととなった。このように、矢野は初期の政党政治において、大隈の腹心として重要な役割を果たした人物であった。
『経国美談』の執筆と明治政治小説のブーム
下野した矢野が1883年から翌年にかけて発表したのが、政治小説『経国美談』(けいこくびだん)である。本作は古代ギリシアの都市国家テーベ(テバイ)が、強国スパルタの圧政を排して民主政治を再興する姿を描いた歴史翻訳小説であった。愛国心や自由・権利のために戦う英雄たちの姿は、当時の自由民権運動に熱狂していた若者や知識人の心を捉え、空前のベストセラーとなった。
『経国美談』の大ヒットは、言論統制が厳しさを増すなかで「小説」というフィクションの形を借りて政治的主張を伝える政治小説というジャンルを確立させ、東海散士の『佳人之奇遇』などへ続く大ブームの先駆けとなった。後年に矢野は官界に復帰し、駐清公使などを歴任したが、彼の遺した文学的・言論的功績は、明治初期の思想界や文学史において極めて大きい。