経国美談 (けいこくびだん)
【概説】
明治時代中期に矢野龍渓によって著された政治小説。古代ギリシャの都市国家テーベ(テーバイ)のスパルタからの独立と民主化闘争を題材に、自由民権思想を平易かつドラマチックに描き、当時の知識層や青年たちの間で大ベストセラーとなった作品。
自由民権運動の昂揚と「政治小説」の流行
明治10年代、日本国内では国会の開設や憲法の制定を求める自由民権運動が最高潮を迎えていた。しかし、明治政府は新聞紙条例や集会条例などを定めて民権派への言論弾圧を強めた。このような状況下で、直接的な言論活動に代わって自らの政治的理想を文学の形で表現しようとする政治小説というジャンルが誕生した。
著者の矢野龍渓(文雄)は、大隈重信を首班とする立憲改進党の結成に参画した人物であり、世論を啓発し民権思想を普及させる目的で本書を執筆した。当時、彼が経営に関わっていた『郵便報知新聞』に掲載されると、一躍大評判となり、単行本としても前編(1883年)と後編(1884年)が出版されて空前の大ベストセラーとなった。
古代ギリシャを舞台に描かれた「自由と独立」
本作の舞台は、紀元前4世紀の古代ギリシャである。覇権を握る強国スパルタの専制支配に苦しむ都市国家テーベを舞台に、若き英雄エパミノンダスやペロピダスらが、市民の自由と祖国の独立を勝ち取るために立ち上がる姿を描いている。専制君主や他国の抑圧に抗い、愛国心と自由の精神をもって共和政を樹立していくストーリーは、藩閥政府による専制を打破し、主権在民の国家を造ろうとしていた当時の日本人に強く訴えかけるものがあった。
また、龍渓が用いた漢文訓読体を基調とする流麗で格調高い文体(和漢混淆体)は、読者に強い感動を与え、当時の若者たちの間で「経国美談調」と呼ばれるほど流行した。本作は、のちに登場する東海散士の『佳人之奇遇』とともに明治政治小説の双璧と称され、政治思想の宣伝媒体としてのみならず、近代日本文学の形成過程における文体模索の先駆例としても高い歴史的意義を持っている。