植木枝盛 (うえきえもり)
【概説】
土佐国出身の明治時代前期における自由民権運動家、思想家。板垣退助らとともに自由党の結成に加わり理論的指導者として活躍し、国民の抵抗権や革命権を明記した急進的な私擬憲法『東洋大日本国国憲按』を起草したことで知られる。
土佐における生い立ちと民権運動への投身
植木枝盛は、1857年(安政4年)、土佐国高知城下の土佐藩士の家に生まれた。幼少期より藩校の致道館などで儒学を学んだが、明治維新後の近代化の波の中で西洋思想に強い関心を抱くようになった。1873年(明治6年)に上京し、一時慶應義塾に入学して学問を深めたが、やがて板垣退助らが主導する自由民権運動に共鳴するようになる。
帰郷後、植木は板垣退助らが設立した立志社に加わり、ジャーナリストや活動家としての頭角を現した。フランスのジャン=ジャック・ルソーの『社会契約論』をはじめとする西洋の啓蒙思想、特に天賦人権論に強く影響を受けた彼は、人間が生まれながらにして持つ権利は誰にも侵されない不可侵のものであると熱烈に説き、自由民権運動の有力な理論家として活動の幅を広げていった。
自由党の結成と急進的民権思想
1881年(明治14年)に明治政府が「国会開設の詔」を発すると、民権派は本格的な政党の結成に向けて動き出した。植木は板垣退助を党首とする自由党の創設に尽力し、結党にあたっては趣意書の起草などに携わった。自由党内において、彼は最も急進的かつ理論的な左派の立場を代表した。
彼の思想的特徴は、単なる議会開設の要求に留まらず、主権在民や徹底した基本的人権の保障を唱えた点にある。著書『民権自由論』などにおいて、政府は人民の自由と権利を保護するために存在するのであり、もし政府がその使命に反するならば、人民には政府に抗議し、それを打倒する権利があるという急進的な民主主義思想を展開した。
私擬憲法『東洋大日本国国憲按』の起草
植木枝盛の歴史的評価を決定づけているのが、1881年(明治14年)に彼が単独で起草した私擬憲法『東洋大日本国国憲按』である。当時、国会開設に向けて各地の民権結社や有志によって多数の憲法草案(私擬憲法)が作成されたが、五日市憲法などと並んで、植木の草案はその中でも群を抜いて民主的かつ急進的な内容を持っていた。
この草案の最大の特徴は、言論・集会・結社の自由をはじめとする基本的人権を広範に保障するとともに、政府が憲法に違反し人民の自由を不当に抑圧した場合には、人民がこれに武力をもって抵抗する「抵抗権」、さらには新たな国家を建国する「革命権(建国権)」までも明記した点である。のちに制定される大日本帝国憲法が天皇主権を基本とする欽定憲法であったこととは対極に位置する。当時の日本において、これほど徹底した国民主権的要素と抵抗権の思想を成文化したことは、日本近代思想史上における特筆すべき達成であった。
晩年の活動と後世への影響
自由党の解党や政府による民権運動への弾圧が激化する困難な状況下でも、植木は著述や言論活動を通じて啓蒙活動を続けた。1890年(明治23年)に帝国議会が開設され、第1回衆議院議員総選挙が実施されると、植木は高知県から出馬して当選し、代議士として国政の場に立った。しかし、そのわずか2年後の1892年(明治25年)、胃潰瘍の悪化により36歳の若さで急逝した。
彼が起草した『東洋大日本国国憲按』は、当時の明治政府に採用されることはなく、長らく歴史の中に埋もれていた。しかし、昭和期に入って歴史学者の色川大吉らによって再発見・再評価が行われた。第二次世界大戦後、大日本帝国憲法に代わって主権在民・基本的人権の尊重を掲げる日本国憲法が制定されたことで、植木枝盛の先駆的な民主主義思想は、時代を半世紀以上先取りしたものとして今日でも極めて高く評価されている。