東洋自由新聞 (とうようじゆうしんぶん)
1881年
【概説】
明治初期の1881(明治14)年に創刊された、民権派の政論新聞。フランス留学から帰国した西園寺公望が社長、中江兆民が主筆を務め、主権在民を唱える急進的な自由民権思想を喧伝した。
仏学塾の系譜と主権在民の主張
東洋自由新聞の創刊には、フランス留学を経験した先駆的な知識人たちが深く関わっている。社長に就任した公家出身の西園寺公望は、長年の渡仏生活で本場の自由主義思想に触れ、帰国後にその普及を目指した。主筆となった中江兆民は、ルソーの『社会契約論』を日本語に訳し、のちに「東洋のルソー」と称される人物である。同紙は、当時主流になりつつあったイギリス流の穏健な議会政治論(立憲改進党系など)に対し、人民主権や自由平等を徹底的に追及するフランス流の急進的な民主主義を論説で展開し、知識層に強い衝撃を与えた。
明治政府の圧力と短命に終わった活動の意義
しかし、公家・華族の地位にある西園寺が民権派の新聞を主宰することは、藩閥政府、とりわけ保守派の岩倉具視らにとって看過できない事態であった。政府は明治天皇の意思(内勅)を利用して西園寺に圧力を加え、社長を辞任させることに成功する。精神的・資金的な支柱を失った東洋自由新聞は、政府の言論弾圧の強化も相まって経営難に陥り、創刊からわずか1ヶ月余り、通巻34号で廃刊へと追い込まれた。活動期間は極めて短かったが、同紙が提示した急進的な人権意識や自由平等の理念は、同年の秋に結成される日本初の政党である自由党の思想的基盤へと継承され、民権運動の過激化・大衆化に決定的な影響を与えた。