藤原通憲(信西) (ふじわらのみちのり(しんぜい)
【概説】
後白河天皇(上皇)の側近として権勢を振るった平安時代末期の学者、政治家。豊富な学識を背景に保元の乱後の国政改革(保元新制)を主導したが、平清盛の重用などが藤原信頼らの反発を招き、平治の乱で自害に追い込まれた。
家格の壁と出家
藤原通憲は藤原南家の出身である。父を早くに亡くしたため高階氏の養子となり、後に藤原氏へ復籍した。大学頭などを歴任し、「日本第一の天狗(飛び抜けた才人)」と評されるほどの博覧強記な学者として知られていた。しかし、当時の朝廷は厳しい身分制(家格)に縛られており、中級貴族の出自である通憲の昇進には限界があった。鳥羽院政期、彼は少納言への任官を強く望んだが叶わず、自らの限界に絶望して1144年に出家し、信西(しんぜい)と名乗った。
後白河天皇の擁立と保元の乱
政界の第一線から退いたかに見えた信西に転機が訪れたのは、妻の藤原朝子(紀伊の局)が雅仁親王の乳母を務めていたことである。1155年に近衛天皇が早世すると、信西の画策もあって、皇器ではないと見なされていた雅仁親王が即位する(後白河天皇)。これにより、信西は天皇の最側近として一気に権力の座へと躍り出た。
翌1156年に鳥羽法皇が崩御すると、朝廷内の対立が火を吹き保元の乱が勃発する。信西は後白河天皇方の事実上の総指揮官として源義朝や平清盛ら武士を動員し、崇徳上皇方を夜襲する強硬策を立案して勝利を収めた。乱後には、薬子の変(810年)以来約350年にわたって停止されていた死刑を復活させ、源為義らを処断するなど、苛烈な処置で朝廷の絶対的権威を確立した。
保元新制と平清盛の重用
保元の乱後、信西は国政を主導し、「保元新制」と呼ばれる大規模な政治改革を断行した。記録荘園券契所(記録所)を再興して全国的な荘園整理を進めたほか、大内裏の再建、神社仏閣の復興、悪僧・神人の乱行の取り締まりなど、かつての律令体制を意識した朝廷権力の回復に尽力した。
この改革において、信西は武力による治安維持や大規模な土木事業の推進力として、平清盛の豊かな財力と武力を高く評価した。信西は自らの息子と清盛の娘を婚姻させるなど平氏との結びつきを強め、清盛を大いに重用した。これが後の平氏政権誕生の大きな伏線となる。
平治の乱と悲劇的な最期
信西の急進的な改革と一族による権力独占は、旧来の貴族層から強い反発を招いた。特に、後白河上皇の寵臣でありながら信西によって台頭を阻まれていた藤原信頼は、彼に深い憎悪を抱いた。また、保元の乱の恩賞が清盛に比べて低いことに不満を持っていた源義朝も、信頼の陣営に引き込まれた。
1159年、清盛が熊野詣で京都を留守にした隙を突き、信頼と義朝が挙兵する(平治の乱)。院御所である三条殿は焼き討ちされ、政変を知った信西は都を脱出した。山城国田原(現在の京都府宇治田原町)の山中まで逃れ、地中に穴を掘って身を隠したが、追っ手に発見される直前に自害して果てた。首は掘り出され、平安京の獄門に晒されるという凄惨な最期であったが、彼が整備した政治路線はその後の平氏政権や後白河院政に引き継がれ、大きな歴史的影響を残した。