藤原信頼

後白河上皇の寵愛を受けたが、政治の主導権を巡って藤原通憲(信西)を妬み、源義朝と結んで平治の乱を起こした人物は誰か。
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★★★

【参考リンク】
藤原信頼(Wikipedia)

藤原信頼 (ふじわらののぶより)

1133〜1159

【概説】
平安時代末期の公卿。後白河上皇の寵臣として権勢を振るった人物。同じく上皇の側近であった藤原通憲(信西)と対立し、源義朝と結託して平治の乱を引き起こしたが、平清盛に敗北して斬首された。

後白河院の寵臣としての急速な台頭

藤原信頼は、武蔵守などを歴任した中級貴族の出身であったが、後白河天皇(後に上皇)の深い寵愛を受けたことで歴史の表舞台に躍り出た。1156年の保元の乱の後、後白河上皇が院政を開始すると、信頼は院の近臣として急速に昇進を重ねる。特別な政治的才覚や学識があったわけではないとされるが、上皇の威光を背景に権勢を拡大し、ついには公卿に列して権中納言にまで昇り詰めた。

信西との対立と反信西派の形成

当時の朝廷では、保元の乱の勝利を主導した学者出身の藤原通憲(信西)が国政の実権を握っていた。信頼は自らのさらなる栄達を望み、近衛大将への任官を要求したが、信西は「その器にあらず」としてこれを強く退けた。この一件により、信頼は信西に対して激しい憎悪を抱くようになる。

この頃、保元の乱で最大の軍功を挙げながらも、平清盛に比べて恩賞が不当に低いと不満を募らせていた河内源氏の棟梁・源義朝がいた。信頼は義朝に接近して自らの武力として取り込んだ。さらに、二条天皇の親政を目指し信西の専制を快く思っていなかった天皇側近(藤原経宗・藤原惟方ら)とも政治的に野合し、強大な反信西派閥を形成していった。

平治の乱の勃発と一時的な政権掌握

平治元年(1159年)12月、最大の軍事力を持つ平清盛が熊野詣のために京都を留守にした隙を突き、信頼と義朝はクーデターを決行した。これが平治の乱である。信頼らは後白河上皇の御所である三条殿を襲撃・焼討ちし、上皇と二条天皇を内裏の一本御書所に幽閉した。逃亡した信西は山城国で自害に追い込まれ、信頼は朝廷内の最大の実力者となった。自らを念願であった右近衛権大将に任じ、一時的ではあるが天下の実権を掌握したのである。

清盛の反撃と敗死、その歴史的意義

しかし、信頼の天下は長くは続かなかった。急報を受けて引き返してきた平清盛は、表面的には信頼に恭順する姿勢を見せつつ、水面下で二条天皇側近と連絡を取り合った。そして、二条天皇を女装させて六波羅の清盛邸へ脱出させ、続いて後白河上皇をも仁和寺へ脱出させることに成功する。これにより、天皇と上皇を擁護する清盛軍が「官軍」となり、信頼・義朝軍は一転して「賊軍(反乱軍)」へと転落した。

大義名分を失い動揺する信頼の軍勢は、六波羅への攻撃を試みるものの清盛軍に大敗を喫した。信頼は仁和寺の後白河上皇のもとへ逃げ込んで助命を乞うたが許されず、捕らえられて六条河原で斬首された。

藤原信頼という一人の院近臣の野心と政治的対立から引き起こされた平治の乱は、結果的に源義朝ら源氏の主要な武力を中央から一掃することになった。そして、乱を鎮圧した平清盛が武士として初めて朝廷における圧倒的な地位を確立し、後の平氏政権樹立を決定づけるという、日本の中世史において極めて重要な歴史的転換点となったのである。

平治物語 (岩波文庫 黄 109-1)

源平合戦の端緒となった平治の乱を、勇壮かつ哀切な筆致で描き出した古典文学の金字塔。

保元・平治の乱 平清盛 勝利への道 (角川ソフィア文庫)

武士の台頭を決定づけた歴史的転換点を、権力闘争と平清盛の視点から紐解く重厚な解説書。

最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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