陰陽師 (おんみょうじ)
【概説】
中国から伝来した陰陽五行説に基づき、天体観測、暦の作成、占術、および怨霊や病魔を払う呪術などを執り行った技術官僚および専門家。律令体制下では国家機関である陰陽寮に所属する官職であったが、平安時代中期以降、独自の呪術的側面を強めて貴族社会に深く根を下ろした。中世以降は武家や庶民の間にも広く浸透し、日本の年中行事や生活習慣に多大な影響を与えた。
律令体制における「国家の技術官僚」としての陰陽師
日本の歴史において陰陽師が公式に登場するのは、7世紀末から8世紀初頭にかけての律令国家の形成期である。大宝律令(701年)の制定により、中央官庁の中務省(なかつかさしょう)の下に陰陽寮(おんみょうりょう)と呼ばれる専門機関が整備された。この段階における陰陽師は、天体の動きを観測して国家の吉凶を占う「天変の察知」や、農耕や年中行事の基準となる「暦(こよみ)の作成」、漏刻(水時計)による時刻の管理などを担う実務的な「技術官僚」であった。その専門知識や技術は国家の最高機密とされ、民間への漏洩や、許可なき私的な占術の実施は法律で厳しく禁止されていた。
平安貴族社会の変容と「呪術師」への脱皮
平安時代中期(10世紀頃)に入ると、律令制の形骸化と摂関政治の進展に伴い、陰陽師の役割は大きく変容する。当時の貴族社会では、政争による敗者の怨念が疫病や天災を引き起こすという怨霊信仰(御霊信仰)が蔓延していた。また、日々の行動の吉凶を極端に気にするようになり、不吉な方角を避ける「方違え(かたたがえ)」や、特定の日に外出を控えて謹慎する「物忌み(ものいみ)」が日常のルールとなった。こうした貴族たちの心理的要請に応える形で、陰陽師は本来の科学的観測の枠を超え、怨霊の退散や呪詛(じゅそ)の防御、病気平癒を祈る「呪術師」としての性格を強めていく。この潮流の中で、卓越した技術とカリスマ性で一条天皇をはじめとする最高権力者に重用されたのが、伝説的な陰陽師・安倍晴明(あべのせいめい)である。晴明の活躍により、安倍氏(後の土御門家)と賀茂氏は、陰陽道の宗家として地位を確立していくこととなった。
中世・近世への展開と、近代化による制度の終焉
鎌倉時代以降、武家が台頭すると国家機関としての陰陽寮は次第に衰退していった。しかし、陰陽師の技術や思想自体は「陰陽道(おんみょうどう)」として地方の武士や庶民の間へと拡散した。室町時代から戦国時代にかけては、地方の有力大名お抱えの陰陽師が軍事的な吉凶を占う一方、民間に下った「民間陰陽師(声聞師など)」が家々の祈祷や葬儀、地相(風水)の確認などを行い、人々の生活に密着した。江戸時代に入ると、安倍氏の末裔である土御門家(つちみかどけ)が徳川幕府から「諸国陰陽師支配権」を認められ、全国の民間陰陽師を統制する家元制度を敷いた。しかし、明治維新を迎えると、近代化と合理主義を推し進める新政府によって、陰陽道は「迷信」として排撃され、1870(明治3)年の「天社禁止令」によって制度としての陰陽師はその長い歴史に幕を閉じた。