産業革命
【概説】
18世紀後半にイギリスで始まった、機械の発明と動力の導入による手工業から工場制機械工業への大転換。この技術的・経済的飛躍は西洋列強に圧倒的な力をもたらしてアジア進出を促し、江戸時代後期の日本に未曾有の外圧として多大な衝撃を与えた。のちに日本自身も国家主導で近代化を推し進め、独自の産業革命を成し遂げることとなる。
西洋における産業革命の勃発
18世紀後半、イギリスにおいて綿織物工業を中心に紡績機や力織機などの機械が相次いで発明され、さらにジェームズ=ワットによる蒸気機関の改良が画期的な動力革命をもたらした。これにより、従来の問屋制家内工業や工場手工業(マニュファクチュア)に代わり、大規模な機械設備と労働者を集約して大量生産を行う工場制機械工業が確立した。
さらに、19世紀に入ると蒸気船や蒸気機関車が実用化され、大量の物資を迅速かつ広範囲に輸送できる「交通革命」が引き起こされた。この結果、イギリスは「世界の工場」としての覇権を握り、世界は本格的な資本主義体制へと移行していくこととなった。
アジアへの波及と江戸幕府への衝撃
産業革命を成し遂げた欧米列強は、大量生産された安価な工業製品を売り込む新たな「市場」と、生産に必要な「原料供給地」を求めて、世界規模での植民地獲得競争(帝国主義への傾斜)を展開した。この波は19世紀中頃にはアジア地域にも到達し、鎖国体制を維持していた江戸幕府にとって極めて重大な外的脅威となった。
1840年に勃発したアヘン戦争において、東アジアの伝統的大国であった清が、蒸気船などの近代兵器を擁するイギリスに無残に敗北したという知らせは、オランダ風説書を通じて幕府首脳や各藩の有志に深刻な衝撃を与えた。そして1853年(嘉永6年)のペリー来航も、まさに産業革命の産物である蒸気船(黒船)の圧倒的な威容を背景とした砲艦外交であった。日本は産業革命を成し遂げた西洋の強大な軍事力・経済力の前に開国を余儀なくされ、安政の五カ国条約(1858年)によって不平等な形で世界資本主義経済の荒波に直接組み込まれることとなった。
明治政府の「殖産興業」と近代化への助走
幕末の動乱を経て成立した明治新政府は、欧米列強との圧倒的な国力差を痛感しており、「富国強兵」を国是として国家主導での急速な近代化に乗り出した。これが殖産興業政策である。
政府は欧米から多数の「お雇い外国人」を招聘して最新の技術や制度を導入し、富岡製糸場(1872年設立)などに代表される官営模範工場を全国各地に建設して民間への技術移転を図った。同時に、鉄道の敷設(1872年の新橋・横浜間開業)や電信網の整備、近代的な郵便制度の創設など、産業革命を支える不可欠なインフラストラクチャーの構築を急ピッチで進めた。また、渋沢栄一らによって株式会社制度が普及し、民間資本の蓄積も徐々に進行していった。
日本の産業革命の本格化と社会構造の変容
日本における独自の産業革命は、日清戦争(1894〜95年)の前後から本格的な展開を見せた。まずは綿紡績業や製糸業といった軽工業の分野で機械化が進展し、特に大阪は「東洋のマンチェスター」と呼ばれるほどの紡績業の中心地となった。生糸や綿糸は日本の主要な輸出品となり、外貨獲得の重要な手段となった。
続いて日露戦争(1904〜05年)の前後には、官営八幡製鉄所の操業開始(1901年)を契機として、鉄鋼・造船・機械工業などの重工業部門でも産業革命が進展した。これにより、日本はアジアで唯一の近代的な工業国・帝国主義国家としての地位を確立した。
しかし、わずか半世紀足らずでの急激な産業革命は、日本社会に様々な歪みをもたらした。足尾銅山鉱毒事件に代表される深刻な公害問題が発生したほか、工場では劣悪な環境下で低賃金・長時間労働を強いられる女工たちの存在が社会問題化した。これらの労働問題は、やがて労働運動や社会主義運動の発生を促し、日本社会は資本主義体制が内包する新たな矛盾と対峙していくこととなった。