鎌倉幕府滅亡

1333年、足利高氏による六波羅探題の陥落と、新田義貞による鎌倉攻めによってもたらされた歴史的出来事は何か?
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鎌倉幕府滅亡

1333年

【概説】
1333年(元弘3年/正慶2年)、後醍醐天皇の討幕運動に足利高氏(尊氏)や新田義貞らが呼応し、約140年続いた鎌倉幕府が倒れた出来事。日本史上初の本格的な武家政権の終焉であり、建武の新政から南北朝の動乱へと至る中世史の大きな転換点となった。

幕府衰退の背景と御家人の不満

13世紀後半の二度にわたる元寇(文永・弘安の役)以降、鎌倉幕府の基盤は大きく揺らぎ始めていた。異国防衛という未曾有の国難において戦費を負担した御家人たちに対し、幕府は新たな領地を獲得できなかったため、十分な恩賞を与えることができなかった。これにより御家人の経済的困窮が深刻化し、幕府が発布した徳政令(永仁の徳政令など)も一時しのぎに過ぎなかった。さらに、政治の実権が北条氏の嫡流である得宗家とその家臣(御内人)に集中する「得宗専制政治」が確立したことで、有力御家人や一般武士の幕府に対する不満は限界に達しつつあった。

後醍醐天皇の執念と討幕運動

一方、朝廷では皇統が大覚寺統持明院統に分裂し、両統迭立の状況が続いていた。こうした中、大覚寺統から即位した後醍醐天皇は、天皇親政の復活と旧弊の打破を志し、幕府の打倒を密かに計画した。1324年(正中元年)の正中の変では計画が事前に発覚して頓挫したが、天皇は諦めず、1331年(元弘元年)に再び挙兵した(元弘の乱)。この企ては幕府軍に鎮圧され、後醍醐天皇は三種の神器を奪われたうえで隠岐国に配流された。しかし、天皇の不屈の意志は、反幕府勢力に大きな大義名分を与えることとなった。

悪党の暗躍と全国的な動乱への波及

後醍醐天皇が配流された後も、畿内を中心に討幕の火は消えなかった。天皇の皇子である護良親王は令旨を発して全国の武士に決起を促し、河内国の新興武士(悪党)である楠木正成は千早城などの急峻な山城に立てこもり、幕府の大軍を長期間にわたって引きつけた。地の利とゲリラ戦法を駆使した正成らの粘り強い抗戦は、幕府軍の無力さを全国に露呈させた。これにより幕府の権威は失墜し、これまで日和見を決め込んでいた各地の武士たちを討幕へと駆り立てる決定的な要因となった。

六波羅探題の陥落と鎌倉攻め

1333年(元弘3年)、討幕の機運が一気に爆発する。後醍醐天皇が隠岐を脱出して伯耆国の船上山で挙兵すると、幕府から討伐軍の主将として派遣されていた有力御家人の足利高氏(尊氏)が幕府に反旗を翻し、京都の六波羅探題を急襲してこれを滅ぼした。時を同じくして、上野国(現在の群馬県)では新田義貞が挙兵した。義貞の軍勢は進軍しながら各地の武士を吸収して大軍へと膨れ上がり、幕府の政治的拠点である鎌倉へなだれ込んだ。激しい市街戦の末、5月22日に北条高時ら北条一族は東勝寺で自刃し、源頼朝の開府以来約140年にわたって続いた鎌倉幕府はここに完全に滅亡した。

歴史的意義と新たな時代への胎動

鎌倉幕府の滅亡は、単なる一政権の交代にとどまらず、古代的な権威に基づく統治機構と、武士による実力主義的な支配秩序とが激しく衝突した結果であった。幕府滅亡後、京都に帰還した後醍醐天皇は、天皇への権力集中を目指す建武の新政を開始する。しかし、武士の現実的な恩賞要求や所領問題を無視した公家中心の政治はすぐに破綻をきたし、足利尊氏らの離反を招くこととなる。幕府滅亡によって解き放たれた武士たちのエネルギーは、やがて室町幕府の創設と、約60年に及ぶ南北朝の動乱という未曾有の戦乱時代へと日本を導いていくのである。

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鎌倉幕府の滅亡 (歴史文化ライブラリー 316)

北条氏の執権政治から倒幕に至るまでの過程を克明に描き出し、鎌倉幕府の終焉を多角的に解き明かす歴史書。

最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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