津田真道 (つだまみち)
【概説】
幕末から明治時代にかけて活躍した官僚、法学者、啓蒙思想家。西周とともにオランダへ留学して近代西洋の法学や社会科学を学び、帰国後は『泰西国法論』の翻訳出版や「明六社」への参加を通じて、日本の近代化と法制整備に多大な貢献を果たした知識人。
オランダ留学と『泰西国法論』による西洋法学の紹介
美作津山藩(現在の岡山県)の藩士の家に生まれた津田真道は、江戸に出て儒学や砲術を学んだ後、幕府の洋学研究機関である蕃書調所に入り、洋学の研究に没頭した。文久2年(1862年)、幕府の命により西周らとともにオランダへ留学。ライデン大学のフィセリング教授から、法学、国法学(憲法)、国際法(万国公法)、経済学などの近代的社会科学を体系的に学んだ。
帰国後の慶応2年(1866年)に刊行された著書『泰西国法論』は、フィセリングの講義ノートをもとに西洋の憲法制度や法思想を日本語に訳出し、解説したものである。これは日本における本格的な西洋法学紹介の先駆書であり、国家の三権分立や基本的人権の尊重、法の支配といった近代国家の根幹をなす理念を日本に初めて広く紹介した。本書は、幕末から明治初期の知識人や官僚に多大な思想的影響を与え、のちの大日本帝国憲法の制定や諸法典の編纂における重要な土台となった。
明六社での啓蒙活動と明治政府における法制官僚としての事績
明治維新後、津田は新政府に出仕し、司法制度や外交分野の官僚として手腕を発揮した。明治4年(1871年)には、清との間で対等条約である日清修好条規の締結交渉にあたり、実務を主導した。その後も司法省や太政官の法制局で近代法典の編纂や制度設計に深く関与した。
官僚としての実務を進める一方で、明治6年(1873年)には森有礼や西周、福沢諭吉らとともに、日本初の学術啓蒙団体である明六社の結成に参加した。機関誌『明六雑誌』において、津田は法学者としての知見から、当時の日本に色濃く残っていた前近代的な慣習や刑罰を厳しく批判した。具体的には、死刑廃止論や拷問の廃止、また親族・身分関係における法制度の近代化(一夫一婦制の提唱)など、人権を尊重する先進的な論説を展開し、国民の意識改革と社会の近代化を強力に推し進めた。晩年には帝国議会の初代衆議院副議長や貴族院議員を歴任し、生涯にわたって近代国家日本の骨組み作りに尽力した。