則闕の官

高校日本史的重要度
★★

【参考リンク】
太政官(Wikipedia)

闕

「闕」の書き方

則闕の官 (そっけつのかん)

701年〜

【概説】
律令制における最高官職である太政大臣に適用された、「適任者がいなければ欠員(空席)にする」という原則。太政大臣が政治の実務を司る官職ではなく、天皇を道徳的に補佐する超然的な名誉職として位置づけられていたことを示す制度である。

「天子の師範」としての太政大臣と則闕の思想

大宝律令(701年)および養老律令(718年)において、太政官の最高官職として規定されたのが太政大臣である。しかし、実務上太政官の政務を統括し、天皇を直接補佐したのは、その下に位置する左大臣や右大臣であった。太政大臣は「一人を置き、師範とす。その人なければ、則ち闕(か)く」と規定され、政治の実務を離れて天皇の学問や道徳の師(天子の師範)となるべき存在とされた。このため、特定の官位を就任条件とする「官位相当制」の適用も受けず、正一位や従一位といった極位に達した高徳の人物のみが就任できる超然的なポストとされた。このような特殊性から、適任者がいなければ任命しないという「則闕の官」の原則が生まれたのである。

飛鳥・奈良時代における則闕原則の実態と政治的機能

則闕の官とされた太政大臣は、歴史上実際に任命された例が極めて少ない。飛鳥時代においては、大津皇子の謀反事件など皇位継承をめぐる動乱のなかで、天智朝の大友皇子(弘文天皇)や、天武・持統朝の高市皇子といった有力皇族(皇親)が太政大臣に就任し、皇親政治を象徴する役割を果たした。しかし、彼らの没後は再び長期間にわたって「闕(空席)」とされた。奈良時代に入ると、光明皇后の後ろ盾を得た藤原仲麻呂(恵美押勝)が「太師(太政大臣の唐名)」に就任し、さらに道鏡が「太政大臣禅師」に任命されるなど、極端な権力集中や政治的危機の局面にのみ、その絶対的な権威を利用する形で任命が行われた。この原則は、安易な任官を防ぎ、太政大臣というポストの希少価値と絶対的な権威を維持するための障壁として機能していたといえる。

平安時代における変化と摂関政治への道

平安時代に入ると、この原則の意味合いに変容が生じる。承和の変(842年)などを経て藤原北家が台頭すると、857年に藤原良房が人臣(皇族以外の臣下)として初めて太政大臣に就任した。これを契機に、太政大臣は皇親の最高官職から、藤原北家の惣領(氏長者)が就任する最高の栄誉職へと性格を変えていく。のちに確立する摂関政治においては、摂政や関白が実質的な最高権力を握る一方で、官制上の最高位である太政大臣を藤原氏の長老が兼ねる、あるいは名誉職として帯びる形が定着した。このように「則闕の官」としての性格を内包し続けた太政大臣は、平安貴族社会における権威の象徴として、実務から切り離された独自の地位を保ち続けたのである。

最終更新:
2026年8月12日 @ 16:00

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