大宝律令

重要度
★★★

大宝律令

701年

【概説】
701年(大宝元年)に文武天皇の命により、刑部親王や藤原不比等らによって編纂・制定された日本初の本格的な法典。刑罰を定める「律」と、行政や民法の規定である「令」が初めて揃って施行された。これにより、天皇を頂点とする中央集権的な日本の律令国家体制が完成した。

大宝律令編纂の背景と過程

7世紀後半、白村江の戦いでの敗戦を契機に、日本は東アジアの激動の中で国家の独立を保つため、急速な中央集権化と国家体制の整備を迫られていた。天智天皇の時代に編纂されたとされる近江令や、天武天皇が編纂を命じ持統天皇の時代に施行された飛鳥浄御原令を経て、法典整備の試みは段階的に進められてきた。しかし、飛鳥浄御原令は「令」のみで刑法にあたる「律」を伴わない未完成なものであった。

そこで、より本格的で包括的な法典の制定を目指し、文武天皇の命によって刑部親王(おさかべしんのう)を総裁とし、藤原不比等や粟田真人ら唐の法制度に精通した官僚たちが中心となって編纂作業が進められた。こうして701年に成立したのが大宝律令である。

「律」と「令」による国家統治の枠組み

大宝律令は、刑罰の規定である「」(全6巻)と、行政組織や人民の生活規範、税制などを定めた「」(全11巻)から構成されている。最大のモデルは唐の永徽律令(えいきりつりょう)であったが、日本の国情に合わせた独自の改変が随所に施されている点が大きな特徴である。

中央の行政機構としては、唐の三省六部制とは異なり、神々の祭祀を司る神祇官と、一般行政を統括する太政官からなる「二官八省制」が採用された。神祇官が太政官と同格に置かれたことは、天皇の権威の源泉を神話的・呪術的な祭祀に求めた日本独自の国家構造を如実に示している。また地方制度としては、全国を国・郡・里に分け、中央から貴族を国司として派遣し、地方の旧豪族を郡司に任命して下部組織に組み込むことで、全国的な支配網を敷いた。

公地公民と人民支配の徹底

大宝律令の制定は、大化の改新以来の目標であった「公地公民制」(土地と人民を国家が直接支配する体制)を具体的な法制度として定着させるものであった。人民を詳細に把握するために、6年ごとに戸籍を作成し、毎年の計帳に基づいて課役を徴収する仕組みが確立された。

この戸籍に基づき、6歳以上の男女に対して身分に応じた田地(口分田)を支給し、死後に国へ返還させる班田収授法が法的に明文化された。そして支給された田地を基礎として、人民には租・庸・調雑徭(ぞうよう)といった重い租税・労役が課せられた。さらに、成年男子の一部を兵士として徴発する軍団の制度も整備され、国家の経済基盤と軍事基盤の両輪が律令によって強力に維持されることとなった。

歴史的意義と東アジアにおける位置づけ

大宝律令の完成は、日本が法に基づいて統治される律令国家として成立したことを意味する。これにより、大王(おおきみ)から「天皇」への君主号の変更や、「日本」という国号の公式な使用も法的に裏付けられたとされている。

翌702年に派遣された遣唐使(粟田真人が執節使として赴任)は、唐の宮廷において初めて「日本」という国号と、独自に完成させた律令法典の存在を示し、東アジア世界において唐と並び立つ文明国(法治国家)として認知されることに成功した。大宝律令そのものの原文は現存していないが、のちに藤原不比等らが改修を進め757年に施行された養老律令にその内容の多くが受け継がれており、古代日本の国家運営の根幹として長きにわたり機能し続けたのである。

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