文武天皇

重要度
★★★

文武天皇 (もんむてんのう)

683年〜707年

【概説】
天武天皇の孫であり、701年に大宝律令を制定して日本の律令体制を完成させた第42代天皇。祖母である持統天皇の強力な後盾を得て異例の若さで即位し、藤原不比等らを重用して国家形成を推し進めた。その治世において国号を「日本」と定めるなど、古代国家の転換点となる極めて重要な役割を果たした。

異例の若き天皇の誕生と藤原不比等の台頭

文武天皇(即位前の名は珂瑠皇子=かるのみこ)は、天武天皇と持統天皇の皇太子であった草壁皇子を父とし、阿閇皇女(後の元明天皇)を母として生まれた。父・草壁皇子が即位前に早世したため、祖母の持統天皇が中継ぎとして即位し、珂瑠皇子の成長を待った。697年、わずか15歳で祖母から譲位を受けて即位したが、これは天皇の生前退位(譲位)による初の皇位継承であり、また当時としては異例の若さであった。

この即位の背景には、天武天皇の直系血統(皇統)を維持しようとする持統天皇(太上天皇として後見)の強い意志と、それを実務面で支えた藤原不比等の台頭があった。不比等は自身の娘である藤原宮子を文武天皇の夫人とし、後に皇室と藤原氏の間に強力な外戚関係を築き上げていく基盤を作った。

大宝律令の制定と律令国家の完成

文武天皇の治世における最大の歴史的意義は、701年(大宝元年)の大宝律令の制定である。天武天皇の代から進められていた法制整備を受け継ぎ、刑部親王や藤原不比等らに命じて編纂させた。これにより、刑法にあたる「律」と行政法・民法にあたる「令」が揃った日本初の本格的な成文法典が完成し、天皇を頂点とする中央集権的な官僚体制(二官八省制)が法的に確立された。

また、この年に「大宝」という元号を建てたが、これは日本で初めて断絶することなく制度として定着した元号の始まりともされる。大宝律令の施行によって、飛鳥時代から続いた政治改革は結実し、日本の律令国家としての体制は事実上の完成を見たのである。

遣唐使の再開と「日本」国号の成立

内政における律令制の完成とともに、外交面でも大きな転換期を迎えた。文武天皇は702年(大宝2年)、粟田真人を執節使として遣唐使を派遣した。これは663年の白村江の戦い以来、約30年ぶりとなる唐への正式な使節派遣であった。

この遣唐使の主な目的は、大宝律令を携えて唐の承認を得るとともに、東アジアの国際社会に対して日本の国家体制が整ったことをアピールすることにあった。この使節の派遣において、唐の側から従来の「倭」に代わる新たな国号である「日本」が正式に認められたとされ、対外的な独立国家としてのアイデンティティが確立された点でも歴史的意義は大きい。

早世と天皇家直系継承の苦難

国家体制の基礎を強固に固めた文武天皇であったが、生来病弱であり、707年(慶雲4年)にわずか25歳で崩御した。彼と藤原宮子との間に生まれた首皇子(おびとのみこ、後の聖武天皇)はまだ幼かったため、直系継承を維持するための中継ぎとして、文武天皇の母である元明天皇、さらに姉の元正天皇が相次いで女性天皇として即位することとなった。

文武天皇の早世は、結果的に8世紀前半の皇位継承をめぐる政治的権力闘争や、藤原氏が外戚として政治を主導していく土壌を作ることになった。しかし、彼が治世中に築き上げた律令制と「日本」という国家の枠組みは、その後の奈良時代、ひいては日本の歴史を通じて長く機能し続けることとなったのである。

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