白河上皇(白河法皇)
【概説】
平安時代後期、1086年に子の堀河天皇に譲位して太上天皇となり、日本史上で初めて本格的な「院政」を開始した人物。天皇家の家長として「治天の君」に君臨し絶大な権力を振るったが、「賀茂川の水、双六の賽、山法師」を天下の三不如意と嘆いた逸話でも知られる。
摂関政治からの脱却と皇位継承への執念
1053年、藤原氏を外戚としない異例の天皇として親政を行った後三条天皇の第一皇子として誕生した。1073年に即位して白河天皇となるが、父・後三条天皇は異母弟への皇位継承を望んでいたとされる。しかし白河天皇は、自らの直系子孫である善仁親王(のちの堀河天皇)に皇位を継がせることを強く望んだ。1086年、白河天皇はわずか8歳の堀河天皇に突然譲位し、自らは太上天皇(上皇)として幼い天皇の後見役となった。この譲位劇こそが、上皇が天皇に代わって政務の全権を握る院政の始まりとされる。
「治天の君」による専制体制の確立
堀河天皇が成人した後も、実質的な政務は白河上皇が握り続けた。堀河天皇が若くして崩御すると、その子である鳥羽天皇、さらにその子である崇徳天皇と、次々に幼帝を即位させ、自らは事実上の最高権力者である治天の君として半世紀近くにわたり専制的な権力を振るった。1096年には出家して白河法皇となったが、その政治的影響力は微塵も揺らがなかった。法皇は中級貴族(受領層)を院の近臣として重用し、摂関家の権力を相対化して大きく削いだ。また、知行国制度を導入して特定の国からの収益を院の近臣に与えたり、自らも巨大な荘園を集積したりするなど、院政を支える強固な経済基盤をも築き上げた。
天下の三不如意と武力(北面武士)の導入
絶大な権力を誇った白河法皇であったが、『平家物語』には、法皇が「我が心に叶わぬもの」として「賀茂川の水、双六の賽、山法師」を挙げたと記されている。度重なる鴨川の水害、確率に左右される双六のサイコロの目、そして強訴(神木や神輿を掲げて朝廷に無理難題を要求する行為)を繰り返す比叡山延暦寺の僧兵(山法師)だけは、いかなる権力をもっても制御できないという嘆きである。特に大寺社勢力による強訴は、当時の朝廷にとって深刻な脅威であった。
この寺社勢力の武力に対抗するため、白河法皇は院の御所の北側を警備させる北面武士を創設した。ここに源義家や、伊勢平氏の平正盛・忠盛父子などを登用したことで、彼らは院の権威を背景に中央政界での地位を急速に高めていった。白河法皇による院政の開始と武士の重用は、平安貴族社会の構造的な変質を決定づけ、やがて訪れる武家政権時代の幕開けを準備する歴史的な大転換点となったのである。