承和の変

842年、藤原良房が伴健岑や橘逸勢らを流罪にし、恒貞親王を廃太子にして自らの甥を皇太子とした事件を何というか。
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重要度
★★

【参考リンク】
承和の変(Wikipedia)

承和の変 (じょうわのへん)

842年

【概説】
842年(承和9年)、嵯峨上皇の崩御直後に発生した、皇位継承をめぐる政変。藤原良房が伴健岑や橘逸勢らの謀反を密告し、皇太子・恒貞親王を廃して自らの甥である道康親王を東宮に立てた、藤原氏による最初の他氏排斥事件。

嵯峨上皇の崩御と緊迫する皇位継承問題

平安時代初期、朝廷では嵯峨上皇が絶対的な権威を握り、政局の安定に努めていた。嵯峨上皇は、嵯峨・淳和の両統による皇位交代を円滑に進めるため、仁明天皇(嵯峨の皇子)の次期皇太子(東宮)として、淳和上皇の皇子である恒貞親王を立てていた。これは両系統の融和を意図した政治的妥協であった。

しかし、この体制は嵯峨上皇の個人的なカリスマに依存していた。仁明天皇の女御で、強力な実力者であった藤原良房の妹・順子(のぶこ)が生んだ道康親王(後の文徳天皇)が成長すると、良房をはじめとする一派は、自らの血を引く道康親王の即位を強く望むようになった。842年7月、嵯峨上皇が病に倒れ崩御すると、後継者をめぐる潜在的な対立が一気に表面化することとなった。

「謀反」の密告と名門氏族の没落

嵯峨上皇の崩御の直前、東宮(恒貞親王)の身辺に危険が迫っていることを察知した東宮学士の橘逸勢や、伴氏(大伴氏)の首領である伴健岑らは、親王を守るために東国へ避難させる計画を企てた。彼らはこの計画について平城天皇の皇子である阿保親王に相談したが、阿保親王はこれに同調せず、皇太后・橘嘉智子(檀林皇后)に密告した。

嘉智子から事態を告げられた藤原良房は、これを「恒貞親王を奉じた謀反」として徹底的に摘発した。嵯峨上皇の崩御直後、良房らは仁明天皇を動かして伴健岑、橘逸勢らを逮捕。伴健岑は隠岐へ、橘逸勢は伊豆への流罪とされ(逸勢は護送途中に病死)、さらに恒貞親王は皇太子を廃された。代わって、良房の思惑通りに道康親王が新たな東宮に擁立されたのである。

藤原北家の台頭と他氏排斥の端緒

承和の変は、日本古代史において大きな転換点となった事件である。この事件により、奈良時代以来の名門氏族であった伴氏橘氏は中央政界での影響力を大きく低下させ、代わって藤原北家の地位が不動のものとなった。

首謀者とされる伴健岑や橘逸勢の計画は、実際には良房らによる政治的陰謀(はめ込み)であった側面が強いとされている。自らの妹が産んだ皇子を即位させ、その「外戚(母方の親族)」として権力を掌握するという手法は、後の摂関政治の基本構造を形作るものとなった。この事件を皮切りに、藤原北家は応天門の変(866年)や安和の変(969年)など、ライバルとなる他氏を次々と排斥していくこととなる。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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