伊勢神宮
【概説】
三重県伊勢市に鎮座し、皇祖神である天照大御神を祀る内宮と、衣食住の守護神である豊受大御神を祀る外宮を中心とする、日本神道の最高位に位置する神社。古代の律令国家形成期に国家祭祀の頂点として確立され、中世から近世にかけては庶民による熱狂的な「お伊勢参り」の対象として、日本人の精神史と社会文化に多大な影響を与え続けた聖地である。
皇祖神祭祀の起源と古代律令国家による位置づけ
伊勢神宮の起源は、古墳時代にさかのぼるとされる。伝承(『日本書紀』など)によれば、それまで大和朝廷の宮中に祀られていた天照大御神(あまてらすおおみかみ)を、崇神天皇から垂仁天皇の時代にかけて各地を巡幸させたのち、倭姫命(やまとひめのみこと)の先導によって五十鈴川の川辺(現在の内宮の地)に鎮座させたのが始まりとされる。また、5世紀末の雄略天皇の時代には、天照大御神の「食事」を司る神として丹波国から豊受大御神(とようけのおおみかみ)が迎えられ、これが外宮の起源となったと伝えられている。
歴史学・考古学的には、伊勢神宮が国家的な神殿として本格的に整備されたのは、7世紀後半の天武天皇および持統天皇の治世(飛鳥時代後期)と考えられている。天武天皇は壬申の乱の際、伊勢の方角を望拝して戦勝を祈願しており、大乱の勝利後に皇室の私的祭祀から「天皇の祖神」を祀る国家最高の神社へと高めた。この時期に、20年に一度社殿を建て替える式年遷宮(しきねんせんぐう)の制度や、未婚の皇女を神に仕えさせる斎王(さいおう)の制度が確立し、古代律令体制の神祇官制において最高位の神社としての地位を不動のものとした。
中世の変容と「伊勢講」による庶民信仰の開花
平安時代末期から鎌倉時代・室町時代にかけて律令体制が崩壊すると、国家(朝廷)からの財政的支援が途絶え、伊勢神宮は一時期困窮に直面した。しかし、神宮の神職たちは自活の道を模索し、全国の武士や庶民に対して祈祷を行い、神領の寄進を募る布教活動を開始した。これにより、それまで天皇・皇族のものとされていた伊勢信仰が、広く一般の人々に向けて開かれる契機となった。
この過程で、伊勢神宮の教えを全国に広める御師(おんし/おし)と呼ばれる宗教活動家が活躍した。御師は全国各地に檀家(だんな)と呼ばれる信者を獲得し、神札(おふだ)を配りながら伊勢への参拝を勧誘した。中世後半から近世にかけて、地域社会の中で「伊勢講(いせこう)」と呼ばれる相互扶助組織が結成され、村人たちが共同で旅費を積み立て、代表者を伊勢へ送り出す仕組みが普及した。これにより、伊勢参りは一般庶民の間に浸透し、宗教的実践であると同時に、生涯一度の観光旅行としての性質を帯びるようになった。
江戸時代の「お蔭参り」と近現代における変遷
江戸時代に入ると、街道の整備や治安の安定、庶民の移動制限の緩和(社寺参拝のための旅の公認)が進み、伊勢参拝は空前のブームを迎えた。特に数十年周期で発生した「お蔭参り(おかげまいり)」と呼ばれる集団参拝では、奉公人が主人に無断で、あるいは子供が親に黙って旅立つ「抜け参り」が多発し、数百万人規模の人々が熱狂的に伊勢へと押し寄せた。これは単なる信仰にとどまらず、当時の庶民にとって最大のレジャーであり、全国の文化や情報が交流する一大経済現象でもあった。
明治維新を迎えると、新政府による神仏分離と国家神道政策のもとで、伊勢神宮は「すべての神社の上に立つ超然とした存在」として再編され、国家管理下に置かれた。第二次世界大戦後は、政教分離の原則によって民間の一宗教法人となったが、現在も皇室の重要な儀式の場としての厳かな伝統を守りつつ、日本国内はもとより海外からも多くの観光客が訪れる、日本文化を代表する聖地として存在し続けている。