獲加多支鹵(ワカタケル)大王

高校日本史的重要度
★★

【参考リンク】
雄略天皇(Wikipedia)

鹵

「鹵」の書き方

獲加多支鹵大王 (わかたけるたいおう)

5世紀後半頃

【概説】
古墳時代中期の5世紀後半に在位したとされるヤマト政権の大王。記紀(『古事記』『日本書紀』)に登場する雄略天皇(大泊瀬幼児尊)に比定される。金石文史料の発見によって実在が確実視され、その支配権が東国から九州におよぶ広範囲に達していたことを示す、日本古代国家形成期の重要人物である。

金石文が証明する大王の支配権拡大

獲加多支鹵大王の名を一躍有名にしたのは、1978年に埼玉県行田市の稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣である。この鉄剣に記された115文字の銘文の中に「獲加多支鹵大王」の名が刻まれていた。さらに、熊本県玉名郡の江田船山古墳から出土した銀象嵌鉄刀の銘文(「治天下獲□□□鹵大王」)についても、欠落部分を補うことで同名と判断された。

東国(武蔵国)の地方豪族である乎獲居臣(をわきのおみ)と、西国(肥後国)の地方豪族である无利弖(むりて)が、ともにこの大王に臣下として奉仕していた事実が判明した。これにより、5世紀後半のヤマト政権の支配体制が、すでに本州最深部から九州にまでおよぶ広域なものであったことが考古学的に実証されることとなった。

「倭王武」としての通交と緊迫する東アジア情勢

中国の歴史書『宋書』倭国伝に登場する「倭の五王」のうち、最後の王である「武」は、その治世や名(ワカタケル=ブ、武)の類似性から、獲加多支鹵大王(雄略天皇)と同一人物であると考えられている。478年、倭王武は南朝の宋に上表文を送り、高句麗の圧迫に対抗するため、朝鮮半島南部(任那や百済など)における自国の軍事的地位の公認を求めた。

この外交交渉の背景には、朝鮮半島の緊迫した情勢と、それに伴う渡来人の流入があった。大王は渡来人の技術や知識を直接掌握するために、自らの直轄地(屯倉)の経営を強化し、伴造(とものみやつこ)を組織して専制的な王権を確立していった。記紀において「大悪天皇(はなはだあしきすめらみこと)」と評されるほどの苛烈な王権強化は、この激動の東アジア情勢に対応するための集権化政策の一環であったと考えられる。

最終更新:
2026年10月2日 @ 16:48

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