高句麗

重要度
★★★

高句麗 (こうくり)

前37年〜668年

【概説】
中国東北部から朝鮮半島北部にかけて広大な領域を支配した古代国家。4世紀末以降、積極的な南下政策をとって朝鮮半島南部へ進出し、当時半島に介入していた日本(倭)の軍勢と激しく交戦した。東アジアの国際情勢の中心的存在であり、その動向はヤマト政権の対外政策や日本の国家形成に多大な影響を与えた。

建国と古代東アジアにおける台頭

高句麗は、紀元前1世紀頃に中国東北部(満州南部)の鴨緑江中流域において、ツングース系の貊(はく)族を中心に建国された。当初は中国の漢帝国やそれに続く魏・晋などの影響下に置かれていたが、次第に周辺の諸部族を吸収して強大化していった。

4世紀に入ると、中国大陸で西晋が滅亡して五胡十六国時代の動乱が始まったことに乗じ、急速に勢力を拡大させた。313年には、かつて漢の武帝が設置した朝鮮半島北部の楽浪郡を滅ぼし、中国勢力を半島から駆逐することに成功した。これにより、高句麗は中国東北部から朝鮮半島北部を支配する東アジア屈指の強国として台頭することとなった。

広開土王の南下政策と倭との激突

4世紀末から5世紀初頭にかけて在位した広開土王(好太王)の時代、高句麗は最盛期を迎える。広開土王は積極的な外征を行い、北方の騎馬民族を討つ一方で、朝鮮半島南部への南下政策を強力に推し進めた。この動きは、当時朝鮮半島南部において百済や加耶(任那)諸国と結んで鉄資源を確保し、政治的影響力を持とうとしていた日本のヤマト政権(倭)と真っ向から衝突することとなった。

391年以降、倭軍は海を渡って百済や新羅をたびたび服属させていたが、新羅からの救援要請を受けた広開土王は、約5万の騎兵・歩兵を派遣して倭軍を撃退した。この一連の戦いの経緯は、現在の中国吉林省に建つ広開土王碑(好太王碑)の碑文に詳細に刻まれている。この碑文は、日本の歴史において文献史料が乏しい「空白の4世紀」におけるヤマト政権の対外的な軍事活動を知るための極めて重要な一級史料となっている。

長寿王の平壌遷都と「倭の五王」の外交

広開土王の跡を継いだ5世紀の長寿王は、427年に都を国内城(現在の中国吉林省集安市)から平壌へと遷し、南進政策をさらに本格化させた。475年には百済の首都・漢城を陥落させて百済王を討ち死にさせ、百済を南方に追いやった。これにより、朝鮮半島は高句麗・百済・新羅が鼎立する三国時代へと本格的に移行した。

この強大な高句麗の圧迫に対し、ヤマト政権の「倭の五王」(讃・珍・済・興・武)は、中国南朝(宋など)に対して盛んに朝貢を行った。特に『宋書』倭国伝にみえる「倭王武(雄略天皇)」の上表文には、高句麗の非道を訴え、高句麗に対抗するための高い将軍号などの権威を中国王朝に求めたことが記されている。すなわち、当時の日本の外交は「高句麗の脅威にどう立ち向かうか」が最大の課題であった。

隋・唐の侵攻と高句麗の滅亡

6世紀末、中国大陸で南北朝の混乱を収拾してが成立すると、東アジアの国際情勢は一変した。隋の文帝や煬帝は、強大な勢力を持つ高句麗を屈服させるため、100万を超える大軍で幾度も高句麗遠征を行った。しかし、高句麗は地の利を生かした頑強な抵抗(薩水大捷など)でこれをことごとく撃退し、結果として遠征の失敗が隋滅亡の大きな要因となった。

隋に代わって中国を統一したもまた、太宗の時代から高句麗への侵攻を繰り返した。高句麗は長期にわたって独立を保ったものの、度重なる戦争によって国力は著しく疲弊し、さらに内部における支配層の権力闘争も激化していった。最終的に、唐と手を結んだ新羅の連合軍(唐・新羅連合軍)からの挟撃を受け、668年に平壌が陥落し高句麗は滅亡した。

高句麗滅亡が日本に与えた影響

高句麗の滅亡と同時代、日本(飛鳥時代)は白村江の戦い(663年)において唐・新羅連合軍に大敗を喫しており、国家存亡の危機に立たされていた。高句麗が滅亡したことで、日本は東アジアで唯一、唐を中心とする国際秩序に組み込まれない独立勢力として孤立を深めることとなった。

また、高句麗の滅亡前後には、戦乱を逃れた多数の王族や貴族、民衆が日本へと亡命してきた。ヤマト政権は彼らを手厚く保護し、先進的な大陸の知識や技術、行政実務の能力を国家形成に活用した。716年には、関東地方に散在していた高句麗系の渡来人を武蔵国に集めて高麗郡(こまぐん)が設置されており(現在の埼玉県日高市周辺)、彼らがもたらした文化は日本の古代社会に深い足跡を残している。

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古代朝鮮と日本 広開土王の素顔 (文春文庫 た 64-1)

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日本史一問一答(ランダム)

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Q. 富本銭の鋳型や不良品が大量に出土し、ここが天武天皇の時代における国営の貨幣鋳造工房であったことが判明した奈良県の遺跡はどこか?