渡来人
【概説】
4世紀から7世紀にかけて、朝鮮半島や中国大陸から日本列島に移住し、進んだ技術や文化を伝えた人々。政治や経済、文化の各方面で活躍し、ヤマト政権の発展や古代日本の国家形成に多大な貢献を果たした。
東アジアの動乱と渡来の背景
渡来人が日本列島へ移住した背景には、4世紀から7世紀にかけての東アジアの激動がある。中国大陸では五胡十六国時代から南北朝時代にかけての戦乱が続き、朝鮮半島でも高句麗、百済、新羅による激しい覇権争いが展開されていた。特に4世紀後半以降、強大な軍事力を持つ高句麗が南下政策をとると、その圧迫を受けた半島南部の人々の中には、戦禍を逃れて日本列島へ渡る者が多数現れた。
一方、日本列島のヤマト政権は、地方豪族を統率し統一国家を形成する過程で、権力基盤の強化を模索していた。そのため、軍事力や経済力を飛躍的に高める大陸の先進技術を渇望しており、渡来人を手厚く保護し、積極的に受け入れる政策をとった。このように、大陸・半島の押し出し要因と、日本列島の引き受け要因が合致した結果、数世紀にわたる断続的な渡来の波が生まれたのである。
もたらされた先進技術と文化
渡来人がもたらした技術や文化は多岐にわたり、古代日本の社会を劇的に変化させた。産業面では、窖窯(あながま)を用いて高温で焼き上げる硬質の土器である須恵器の製造、高度な機織り技術、金属の精錬や鍛冶技術などが伝えられた。また、馬の飼育や乗馬の風習、馬具の製作技術もこの時期にもたらされ、ヤマト政権の軍事力向上に直結した。
農業・土木分野では、U字型の鉄製農具の普及や、大規模なため池・用水路の築造技術が伝えられ、農業生産力が飛躍的に増大した。さらに、精神文化や知識の面でも、漢字(文字)や儒教、暦法、そして6世紀半ばには仏教が伝来し、のちの飛鳥文化や白鳳文化が開花する礎となった。
活躍した代表的な氏族と役割
渡来人たちはヤマト政権において、自らの持つ専門技術を活かして品部の伴造(とものみやつこ)などの地位を与えられ、世襲の職能官僚として活躍した。代表的な渡来系氏族として、以下の三者がよく知られている。
第一は、百済から渡来したとされる弓月君(ゆづきのきみ)を祖とする秦氏(はたうじ)である。彼らは養蚕や機織り、治水技術に長け、山背国(現在の京都府)を開拓して莫大な富を築いた。第二は、後漢の霊帝の末裔を称する阿知使主(あちのおみ)を祖とする東漢氏(やまとのあやうじ)である。彼らは文筆や記録、財政などを担当し、後に蘇我氏と結びついて政権の中枢で武力も行使した。第三は、百済から『論語』や『千字文』をもたらしたとされる王仁(わに)を祖とする西文氏(かわちのふみうじ)であり、彼らもまた記録や公文書の作成を担った。また、5世紀末から6世紀にかけて新たに渡来した人々は「今来の才伎(いまきのてひと)」と呼ばれ、さらに新しい技術をヤマト政権に提供した。
古代国家形成における歴史的意義
渡来人が日本の歴史に与えた最も重要な影響は、文字と記録の技術をもたらしたことである。文字の導入により、ヤマト政権は貢納物や土地、人民の正確な把握が可能となり、口承に頼っていた在地社会から、文書行政による広域的かつ体系的な支配へと移行することができた。史(ふひと)などの職務に就いた渡来系氏族は、外交文書の作成や財政管理を一手に引き受け、政権の頭脳として機能した。
また、7世紀後半の白村江の戦い(663年)で百済が滅亡した際には、多数の百済貴族や知識人が亡命者として日本に渡り、防衛施設の築造や律令制度の整備に深く関与した。渡来人なしには、日本の律令国家の成立や、古代における中央集権体制の確立は到底不可能であったと言っても過言ではない。