鉄剣
【概説】
古墳から出土する、両刃の鉄製武器。弥生時代後期から古墳時代にかけて普及し、高い実戦能力を持つ武具として用いられた。のちに金象嵌などの装飾が施され、大和政権が地方豪族へ下賜する儀礼や権威の象徴(威信材)としても重要な役割を果たした。
実戦用武器から支配の象徴(威信材)への変化
古墳時代前期から中期にかけて、日本列島における武器体系は大きな変革期を迎えた。弥生時代に祭祀の道具として大型化した青銅器(銅剣・銅矛など)に代わり、実用的な鉄製武器が急速に普及した。当初、鉄剣は鋭い斬撃・刺突能力を持つ実戦用の武器として戦闘で実用されたが、古墳時代中期(5世紀)以降になると、大和政権の王権強化に伴って、政治的な意味合いを強く帯びるようになった。
金や銀を埋め込む象嵌(ぞうがん)技術や、柄・鞘への豪華な装飾が施された鉄剣は、戦場で使用するためではなく、儀礼用の「威信材」として用いられた。これらは大和政権の首長(倭王)から地方の有力豪族へ、服属の証や軍事的同盟の証として下賜(かし)され、受給した豪族の地方における支配権や権威を保障する役割を果たしたのである。
東アジア情勢と鉄素材の確保
古墳時代の日本列島においては、自給自足できる製鉄技術(砂鉄や鉄鉱石から鉄を精錬する技術)がまだ十分に確立されていなかった。そのため、鉄剣の原材料となる「鉄鋌(てってい)」や鉄製品の多くは、朝鮮半島南部の加耶(任那)地方からの輸入に依存していた。
このため、鉄製品の保有量は、そのまま朝鮮半島との交渉力や軍事力を示すバロメーターとなった。大和政権は加耶地方との緊密な外交関係を背景に鉄素材を独占的に確保し、それを国内の工人集団に加工させて鉄剣や鉄甲をつくり出し、地方豪族に配分することで国内の支配秩序を構築した。鉄剣は、当時の緊迫した東アジア情勢と倭国の外交政策が深く結びついた産物であったと言える。
倭王権の支配拡大を証明する「銘文鉄剣」
鉄剣が持つ政治的・歴史的意義を最も明確に示しているのが、埼玉県行田市の稲荷山古墳から出土した「金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)」である。この鉄剣の表裏には115文字に及ぶ金象嵌の文字が刻まれており、辛亥年(471年とされる)に「獲加多支鹵大王(ワカタケル大王=雄略天皇)」に仕えた地方豪族「乎獲居臣(ヲワケのオミ)」が、自らの系譜と大王への忠誠を記録するために作らせたことが記されている。
また、熊本県の江田船山古墳からも同様にワカタケル大王の名(「治天下獲□□□鹵大王」)が記された銀錯銘鉄刀が出土している。これらの発見は、5世紀後半という早い段階で、大和政権の勢力範囲(王権の支配力)が関東から九州におよぶ広大な範囲にまで拡大していたこと、そして鉄剣(鉄刀)がその支配を維持するための政治的道具として機能していたことを同時代史料として実証する極めて重要な歴史的意義を持っている。