七支刀

重要度
★★

【参考リンク】
七支刀(Wikipedia)

七支刀 (しちしとう)

4世紀後半

【概説】
4世紀後半に百済(くだら)の王からヤマト政権の王(倭王)へと贈られた、左右に3本ずつの枝刃を持つ特異な鉄剣。奈良県の石上神宮(いそのかみじんぐう)に伝来し、その刀身に刻まれた金象嵌(きんぞうがん)の銘文は、古代東アジアにおける外交関係を明らかにする超一級の文字史料である。

刀身に刻まれた金象嵌銘文とその年代

七支刀は、本刃のほかに左右互い違いに3本ずつの枝刃が出ており、実戦用ではなく儀礼用・祭祀用の武器として製作されたと考えられている。明治時代、石上神宮の大宮司であった菅政友(かんまさとも)が錆を落としたところ、刀身の表裏に計60余文字の金象嵌の銘文が発見された。これにより、それまで伝承の中に埋もれていたこの剣が、実在の歴史的遺物として一躍脚光を浴びることとなった。

銘文の冒頭には「泰■四年」という年号が記されている。この「泰」に続く文字については諸説あるが、中国南朝の東晋の元号である「太和(たいわ)」とする説が有力である。太和4年は西暦369年に該当し、この年に百済において作刀され、のちに倭王へと贈られたと推定されている。この時期は、ちょうど中国大陸が五胡十六国時代の動乱期にあり、朝鮮半島や日本列島の諸勢力が合従連衡を繰り返していた激動の時代にあたる。

『日本書紀』との合致と東アジアの国際情勢

七支刀の重要性は、その存在が『日本書紀』の記述と奇跡的に一致する点にある。『日本書紀』の神功皇后摂政52年条には、百済の使者が来朝し、「七枝刀(ななつさやのたち)」と「七子鏡(ななつ子の鏡)」を献上したという記述が存在する。神功皇后の紀年は朝鮮側の史料(『三国史記』など)と照らし合わせると約120年(干支二運分)引き下げて解釈するのが通説であり、これを行うと「神功皇后摂政52年」は西暦372年となる。これは七支刀の製作年とされる369年のわずか3年後であり、百済からヤマト政権に剣がもたらされた歴史的事実を裏付ける強力な証拠となった。

この時代、朝鮮半島では北方の強国・高句麗が南下政策を進めており、これに危機感を抱いた百済は、南方の新羅や海を越えた倭国(ヤマト政権)と同盟を結ぶ必要に迫られていた。この政治的・軍事的連携の証として、百済から倭王に対して、当時の最新の鉄器製造技術で作られた七支刀が贈られたと考えられている。これは、5世紀初頭に建立された高句麗の好太王碑(広開土王碑)に記された「倭の朝鮮半島進出」とも時間的に平整合性を持つものである。

「献上」か「下賜」かをめぐる解釈の論争

七支刀の銘文の解釈をめぐっては、日本と朝鮮半島の研究者の間で長年にわたり論争が続いている。銘文の後半には「百済王の世子が倭王のためにこの剣を作った。後世に伝えるべし」という趣旨の文章が刻まれている。日本の『日本書紀』では「献上」と表現されているが、銘文の文体には、上位者が下位者に対して物を授ける「下賜(かし)」のニュアンスが含まれているとする指摘もある。これは、当時の百済が中国王朝(東晋)から爵位を受ける先進的な国家であり、倭国に対して文化的一位に立っていたことを反映しているという見方である。

一方で、中国皇帝を頂点とする冊封体制とは異なり、高句麗の脅威に対抗するための対等な軍事同盟の記念品(対等の立場での「贈答」)とする説も根強い。いずれにせよ、七支刀は文字記録の極めて少ない4世紀の日本(「空白の4世紀」と呼ばれる)において、ヤマト政権が百済を通じて中国南朝(東晋)の文字文化や先進的な鉄器技術を確実に受け入れていたことを実証する、極めて重要な記念碑的史料である。

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