稲荷山古墳

重要度
★★

稲荷山古墳 (いなりやまこふん)

5世紀後半

【概説】
埼玉県行田市の埼玉(さきたま)古墳群に属する、5世紀後半に築造された前方後円墳。1968年の発掘調査で、金錯銘(きんさくめい)鉄剣を含む極めて豊富な副葬品が出土したことで知られる。鉄剣に刻まれた銘文は、5世紀におけるヤマト政権の広域支配を同時代史料として実証する超一級の歴史資料である。

埼玉古墳群における位置づけと発掘の経緯

稲荷山古墳は、埼玉県行田市に位置する埼玉古墳群を構成する大型前方後円墳の一つである。全長約120メートルに及び、墳丘の周囲には二重の濠が巡らされている。この古墳群は、のちに「武蔵(むさし)」と呼ばれる地域を代表する有力豪族の首長墓群であり、関東地方における政治・文化の中心地であったことを示している。

1968年、後円部で行われた発掘調査において、粘土槨(ねんどかく)に並置された礫槨(れきかく)から多数の武具、馬具、装身具などとともに、1本の鉄剣が出土した。当初は単なる鉄剣とみなされていたが、1978年に保存処理の一環としてレントゲン撮影を行ったところ、表裏に合わせて115文字の金象嵌(きんぞうがん)による文字が刻まれていることが判明し、日本古代史学界に激震が走った。これが国宝に指定された金錯銘鉄剣である。

金錯銘鉄剣が示す「ワカタケル大王」と5世紀の史実

鉄剣の銘文は、冒頭に「辛亥(しんがい)の年」とあり、これは西暦471年(一部に531年説もあるが471年が定説)を指すとされる。銘文の作成者は乎獲居臣(ヲワケの臣)と名乗り、自身の先祖が代々「杖刀人首(じょうとうじんのかしら:大王の親衛隊長)」として歴代の大王に奉仕してきた系譜を記している。

そして、彼が仕えた大王として「獲加多支鹵大王(ワカタケル大王)」の名が刻まれている。このワカタケル大王は、記紀(『古事記』『日本書紀』)に登場する大長谷若建命(おおはつせわかたけるのみこと)、すなわち第21代雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)に比定されている。中国の歴史書『宋書』倭国伝に登場する「倭王武」とも同一人物とみなされており、この発見によって、伝承の域を出なかった5世紀後半の倭国大王の実在性と、その統治年代が科学的・実証的に裏付けられることとなった。

東西を結ぶ広域支配の証明と歴史的意義

稲荷山古墳の鉄剣銘文の歴史的重要性を決定づけたのは、熊本県玉名郡にある江田船山(えたふなやま)古墳から出土していた大刀(銀象嵌銘大刀)の存在である。江田船山古墳の銘文に刻まれた「治天下獲□□□鹵大王」という不鮮明な文字が、稲荷山古墳の「獲加多支鹵大王(ワカタケル大王)」と同じであることが確定したためである。

これは、5世紀後半の段階で、九州から関東に至る広大な日本列島の中央部が、ヤマト政権の「大王」という共通の権威のもとに統合されつつあったことを示している。地方の有力豪族(武蔵のヲワケの臣や肥後の豪族)が、大王の親衛隊として畿内の宮廷に仕え、奉仕の記念として贈られた、あるいは自作した武器を自らの墓に副葬した。このことは、ヤマト政権による「部民制」や「国造制」へとつながる初期の官僚制的な統治機構が、東国や九州にまで及んでいたことを裏付ける有力な証拠である。

さきたま古墳群: 国宝・金錯銘鉄剣と古代東国

国宝・金錯銘鉄剣の歴史的背景と、古代東国の重要拠点であったさきたま古墳群の全貌を紐解く充実した一冊。

ワカタケル大王とその時代: 埼玉稲荷山古墳

出土した鉄剣の銘文からワカタケル大王の足跡を辿り、古代豪族の権力構造と当時の社会情勢を解き明かす研究書。

日本史一問一答(ランダム)

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Q. 瀬戸内海や九州・四国地方に広く流通した黒曜石の産地として知られる、大分県の島はどこか?
Q. 藤原京や平城京などに採用された、都市の内部を東西と南北に走る道路で碁盤の目状に区画する制度を何というか?