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石橋湛山内閣 (いしばしたんざんないかく)
【概説】
日ソ国交回復を果たして退陣した鳩山一郎の後を継ぎ、1956年(昭和31年)12月に成立した自由民主党の第2代総理大臣・石橋湛山による内閣。積極財政による経済成長や中国・ソ連などとの独自外交を志向して国民から高い期待を集めたが、首相自身の突然の病により、国会で一度も答弁を行うことなくわずか65日で総辞職した短命政権である。
激闘の自民党総裁選と言論人首相の誕生
1955年の保守合同によって誕生した自由民主党(自民党)において、初代総裁の鳩山一郎が日ソ国交回復を花道に引退を表明した。これを受けた1956年(昭和31年)12月の党総裁選は、岸信介、石橋湛山(いしばしたんざん)、石井光次郎の三つ巴の激しい争いとなった。
戦前から一貫して軍部やファシズムを批判してきた気骨ある言論人(『東洋経済新報』主幹)であった石橋は、決選投票において石井陣営と手を結ぶ「2・3位連合」を成功させ、僅差で本命視されていた岸を逆転して第2代総裁の座を射止めた。激烈な派閥抗争や実弾(金銭)が飛び交ったとされる総裁選の直後ではあったが、戦前からの自由主義的な姿勢と庶民的な風貌を持つ石橋の首相就任は、国民から熱狂的な歓迎を受けた。
「一千億円減税・一千億円施策」と独自外交の模索
石橋内閣の基本政策の目玉は、「一千億円減税・一千億円施策」というスローガンに代表される積極財政路線であった。インフレを警戒して緊縮財政をとってきたこれまでの政策を転換し、大幅な減税と公共投資によって完全雇用と経済成長を達成しようとするものであり、これはのちの池田勇人内閣による「所得倍増計画」の先駆けとも言える画期的な経済構想であった。
また外交面においても、アメリカ一辺倒の路線を修正し、前内閣で国交を回復したソ連との関係強化や、当時は国交がなかった中華人民共和国(中国)との貿易拡大に強い意欲を示した。石橋は冷戦下にあっても独自の平和外交を模索しており、そのリベラルで自主的な政治姿勢は当時の知識人層からも高く評価されていた。
突然の病魔と政治的良心による退陣決断
しかし、国民の大きな期待を背負って発足した石橋内閣は、思わぬ形で唐突な終わりを迎えることになる。首相就任直後の1957年(昭和32年)1月下旬、全国遊説など過密なスケジュールをこなしていた石橋は、入浴後に軽い脳梗塞で倒れてしまった。
再開された国会に首相が出席できないという異常事態が続き、外務大臣に起用されていた岸信介が首相臨時代理を務めた。医師団から「最低でも2ヶ月の絶対安静が必要」と診断された石橋は、「国会答弁ができない状態のまま首相の座にとどまることは、議会制民主主義における自らの政治的良心が許さない」として、周囲の慰留を振り切って潔く退陣を決断した。組閣からわずか65日後、本会議の演壇に一度も立つことのないままの総辞職であったが、権力に執着しないその見事な引き際は、言論人・石橋湛山の面目躍如として今日まで語り継がれている。