池田勇人内閣
【概説】
1960年の安保闘争後の混乱を収拾するため、「寛容と忍耐」をスローガンに掲げて成立した内閣。国民の関心を政治的対立から経済成長へと転換させるべく国民所得倍増計画を強力に推進し、日本の高度経済成長を本格的に牽引した。
成立の背景:安保闘争の傷跡と「寛容と忍耐」
1960年(昭和35年)、前任の岸信介内閣は日米安全保障条約の改定(新安保条約)を強行採決し、これに反発するかつてない規模の大衆運動、すなわち安保闘争を引き起こした。社会的な分断と混乱の責任をとって岸内閣が退陣した後、同年7月に成立したのが池田勇人内閣である。
池田勇人は、極度に高まっていた政治的緊張を緩和するため、「寛容と忍耐」というスローガンを掲げた。野党に対する強硬な対決姿勢を改め、対話と協調を重んじる「低姿勢」を貫くことで、国民の不満を和らげ、社会の安定を取り戻すことに成功したのである。
国民所得倍増計画の推進と高度経済成長
池田内閣の最大の功績は、国民の関心をイデオロギー対立から経済的な豊かさへと巧みに転換させたことである。その中核となったのが、1960年末に閣議決定された国民所得倍増計画であった。
これは「10年間で国民総生産(GNP)を2倍にする」という野心的な目標を掲げたものであり、当初は実現を危ぶむ声もあった。しかし、政府によるインフラ整備などの積極的な公共投資と、民間企業による旺盛な設備投資が相乗効果を生み、日本経済は予想をはるかに上回るスピードで成長した。結果として、この目標はわずか7年弱で前倒しして達成されることとなり、日本は本格的な高度経済成長期へと突入した。これにより、カラーテレビ、クーラー、カー(自動車)の「新種の神器(3C)」が普及するなど、豊かな大衆消費社会が花開いた。
経済外交の展開と先進国入り
外交面においても、池田内閣はイデオロギー色の強い政治外交から、実利を重んじる経済外交へと舵を切った。安保闘争によって冷え込んでいた日米関係を修復するため、1961年にはアメリカのケネディ大統領と会談し、日米貿易経済合同委員会の設置を取り決めるなど、経済面でのパートナーシップを強化した。
また、日本経済の国際社会への統合も推し進められた。1963年にはGATT(関税および貿易に関する一般協定)の11条国に移行し、翌1964年にはIMF(国際通貨基金)の8条国へ移行して、為替管理の撤廃など開放経済体制への編入を果たした。さらに同1964年、日本はOECD(経済協力開発機構)への加盟を実現し、名実ともに「先進国の仲間入り」を達成したのである。
池田内閣の終焉と歴史的意義
1964年10月、日本の戦後復興の象徴でもあった東京オリンピックが開催された。その閉会式の翌日、池田は喉頭がんの悪化を理由に退陣を表明し、約4年間にわたる政権に幕を下ろした(後継は佐藤栄作内閣)。
池田勇人内閣の歴史的意義は、戦後日本を「政治の季節」から「経済の季節」へと決定的に転換させた点にある。政治的対立による左右の分断を経済成長の果実によって包摂し、分厚い中間層(一億総中流)を形成したことは、国民生活を飛躍的に向上させただけでなく、その後の長期にわたる自民党の一党優位体制(55年体制)を安定させる最大の基盤となったのである。