中華人民共和国
【概説】
1949年10月、中国共産党が北京を首都として建国した社会主義国家。第二次世界大戦後の国共内戦に勝利した毛沢東らによって成立し、冷戦下のアジア情勢や戦後日本の外交・安全保障政策に多大な影響を与えた。
建国の歴史的背景と東アジアの冷戦構造
第二次世界大戦の終結後、中国大陸では蔣介石率いる中国国民党と、毛沢東率いる中国共産党との間で再び国共内戦が勃発した。ソ連の支援を受けた共産党軍が農村部から勢力を拡大して内戦を制し、敗れた国民党政府は台湾へと逃れた。そして1949年10月1日、毛沢東を国家主席として北京で建国が宣言されたのが中華人民共和国である。
巨大な人口と国土を擁する中国大陸に社会主義政権が誕生したことは、戦後の冷戦構造において西側陣営に深刻な脅威を与えた。この出来事は、アメリカの対日占領政策を大幅に転換させる契機となり、日本を「反共の防波堤」として位置づける「逆コース」の動きを加速させた。翌1950年に勃発した朝鮮戦争において、中華人民共和国が「人民義勇軍」を派遣して北朝鮮を支援したことは、東アジアにおける冷戦を熱戦へと激化させ、日本の再軍備(警察予備隊の創設)やサンフランシスコ講和会議のあり方にも決定的な影響を及ぼした。
戦後日本の対中政策と「政経分離」
1951年、日本はサンフランシスコ平和条約に調印して独立を回復したが、この会議に中華人民共和国と台湾の国民政府(中華民国)はいずれも招かれなかった。アメリカの強い意向を受けた吉田茂内閣は、1952年に台湾の国民政府との間で日華平和条約を結び、同政府を中国を代表する正統な政府として承認した。これにより、日本と中華人民共和国との国交は正式に断絶状態となった。
しかし、地理的・歴史的に関係の深い隣国との交流を完全に断つことは難しく、日本は政府間の正式な外交関係を持たないまま、民間レベルでの経済・文化交流を進める「政経分離」の方式をとった。1962年には、高碕達之助と廖承志の間で結ばれた覚書に基づくLT貿易が開始され、半官半民の形で経済関係が徐々に築かれていった。
国際情勢の激変と日中復交
1970年代に入ると、中ソ対立の激化やベトナム戦争の泥沼化を背景に、世界の外交関係は大きく流動化した。1971年夏、アメリカのニクソン大統領が電撃的に訪中計画を発表し(ニクソン・ショック)、同年秋には国際連合において中華人民共和国が中国の代表権を獲得し、台湾の国民政府が国連を脱退した。この一連の劇的な変化は、日本国内にも「バスに乗り遅れるな」という日中復交の気運を急速に高めることとなった。
1972年7月に成立した田中角栄内閣は、日中国交正常化を最優先課題に掲げた。同年9月、田中首相は北京を訪問して周恩来首相らと会談し、日中共同声明に調印した。この声明により、日本は中華人民共和国政府を「中国の唯一の合法政府」として承認し、両国間の戦争状態は終結した。同時に日本は台湾との外交関係を断絶したが、この歴史的転換は戦後日本の外交における最大の転換点の1つと評価されている。
日中平和友好条約と改革開放体制
国交正常化後、両国間の本格的な法的枠組みを構築するため、1978年に福田赳夫内閣のもとで日中平和友好条約が締結された。条約には覇権主義に反対する条項(反覇権条項)が盛り込まれ、両国の平和的関係が法的に裏付けられた。
同じく1978年、中国では鄧小平の指導のもとで「改革開放」路線が採択され、社会主義体制を維持しつつも市場経済の導入が図られた。これに対し、日本は政府開発援助(ODA)を通じた大規模な経済協力を行い、中国のインフラ整備や経済発展を支援した。こうして強固な経済的結びつきを深めた両国であるが、現代に至るまで、歴史認識問題や領土問題、あるいは東アジアの安全保障環境をめぐる摩擦など、様々な課題を内包しながら複雑な関係を構築し続けている。