抗日民族統一戦線 (こうにちみんぞくとういつせんせん)
【概説】
中国において、中国国民党と中国共産党が激しい内戦を停止し、日本軍の侵略に対して全民族が団結して抵抗するために結成した強力な協力体制。1937年の盧溝橋事件とそれに続く日中戦争の本格化を機に第二次国共合作として具体化し、日本の中国侵略を長期にわたって阻み、泥沼化させる決定的な要因となった。
内戦停止から抗日共同戦線への転換
1930年代前半、蒋介石率いる中国国民党政府は、国内の共産党勢力を壊滅させることを最優先する「先安内後攘外(まず国内を安定させてから外敵を防ぐ)」の方針をとっていた。このため、満州事変や満州国建国、さらには華北分離工作といった日本の絶え間ない軍事的侵略に対し、有効な対抗策を打ち出せずにいた。
しかし、危機の高まりの中で中国共産党は1935年に八・一宣言を発表し、国民党に対して内戦の中止と共同での抗日闘争を呼びかけた。さらに1936年12月、西安において張学良が蒋介石を拘束し、内戦停止と抗日を迫った西安事件が発生。これにより蒋介石も共産党との妥協を余儀なくされ、抗日民族統一戦線の結成に向けた政治的環境が急速に整うこととなった。
第二次国共合作の成立と日本の大きな誤算
1937年7月、北京郊外での盧溝橋事件を契機に日中戦争が勃発すると、同年9月に国民党が共産党の提出した「国共合作宣言」を公表し、ここに軍事同盟である第二次国共合作が正式に成立した。共産党の軍隊である紅軍は国民政府の指揮下(八路軍・新四軍)に入り、統一戦線のもとで一体となった激しい抵抗を開始した。
当時、日本政府や陸軍の指導部は「一撃を加えれば中国側はすぐに屈服する」という極めて甘い見通しを抱いていた。しかし、国共両党が手を結んだことによる全民族的な抵抗運動の前に、日本軍は主要都市を占領したものの点と線を結ぶにすぎず、広大な農村部を支配する共産党の遊撃戦(ゲリラ戦)に翻弄され、戦況は完全に膠着した。
日本外交の破綻と太平洋戦争への道
抗日民族統一戦線の形成に対し、近衛文麿内閣は「国民政府を対手とせず」とする声明を発表して外交交渉の道を自ら閉ざし、さらに親日派の汪兆銘を擁立して南京に傀儡政府を樹立させることで、統一戦線の分断・弱体化を図った。しかし、重慶に拠点を移した蒋介石の国民政府は揺るがず、統一戦線の存在は崩れなかった。
この中国の強固な抵抗は、英米仏ソなどの列強が「援蒋ルート」を通じて中国を支援する国際的な枠組みを生み出す大義名分となった。抗日民族統一戦線を打破できない焦りから、日本軍は南進政策(仏印進駐など)を強行し、これが日米関係の決定的悪化を招き、最終的に日本が太平洋戦争へと突入していく最大の主因となったのである。