第2次国共合作
【概説】
日中戦争の勃発を受け、中国国民党と中国共産党が内戦を停止し、再び提携して結成した抗日統一戦線のこと。1927年に崩壊した第1次国共合作以来の連携であり、日本軍の侵略に対抗するための強固な抵抗体制を生み出した。結果として日本の目論見を外して戦争を泥沼化させ、戦後の中国の命運をも決定づける重要な歴史的転換点となった。
抗日機運の高まりと「西安事件」
1931年の満州事変以降、日本の中国大陸への侵略が露骨になるなか、蔣介石率いる中国国民党政府は「安内攘外(国内の統一を優先し、共産党を討伐した後に外敵たる日本に当たる)」という基本方針をとっていた。国民党軍から猛烈な討伐を受けた中国共産党は、拠点を追われて「長征」と呼ばれる過酷な大移動を余儀なくされる。しかし、日本の華北分離工作などによって国家的危機が深まると、共産党は1935年に「八・一宣言」を発表し、内戦の停止と抗日民族統一戦線の結成を国内外に呼びかけた。
抗日への機運が中国全土で高まるなか、1936年12月に歴史を動かす事件が起きる。共産党討伐の最前線に立たされていた張学良が、督戦に訪れた蔣介石を監禁して内戦停止と抗日を迫る「西安事件」を起こしたのである。共産党から派遣された周恩来の調停もあり、蔣介石は要求を受諾して無事釈放され、事実上の内戦停止が実現した。これが第2次国共合作へ向けた決定的な地ならしとなった。
日中戦争の勃発と合作の成立
1937年7月、北京郊外で盧溝橋事件が発生し、本格的な日中戦争が勃発する。日本軍の全面的な侵攻を前に、両党はついに妥協を決断した。同年9月、国民党が共産党の提出した「国共合作宣言」を公表し、共産党の合法的地位を事実上承認したことで、約10年ぶりに両党が手を結ぶ第2次国共合作が正式に成立した。
これにより、共産党が率いる紅軍は国民党政府の指揮下に編入され、華北の第八路軍(八路軍)および華中の新編第四軍(新四軍)として再編され、共に抗日戦線に投入されることとなった。イデオロギーの対立を一時棚上げし、「民族の危機」という一点において中国全土が団結した瞬間であった。
日本の誤算と戦争の泥沼化
日本側は当初、中国側の抵抗を過小評価しており、「一撃を加えれば中国は屈服する」と高を括っていた。しかし、国共合作による強固な統一戦線は、日本軍の想像を超える激しい抵抗を見せた。1938年、日本の近衛文麿首相は「国民政府を対手とせず」という強硬な声明を出し、蔣介石政権との交渉を打ち切って事態の打開を図ったが、これはかえって和平の道を完全に閉ざす結果となった。
国民政府は首都を南京から武漢、さらに内陸の重慶へと移して徹底抗戦を続けた。さらに、アメリカやイギリス、ソ連などからの物資支援(援蔣ルート)も確保し、戦局を持久戦へと持ち込んだ。結果として日本は膨大な兵力と物資を広大な中国大陸で消耗し続けることとなり、その打開策として東南アジアへの進出を図り、最終的に太平洋戦争へと突き進む大きな要因となったのである。
戦後中国への影響と合作の崩壊
第2次国共合作は、日本の帝国主義的拡張を食い止める最大の障壁として機能した。しかし、両党の提携はあくまで「抗日」という共通目標のための戦術的な妥協に過ぎず、戦争中も水面下では激しい主導権争いが絶えなかった。特に共産党は、国民党軍が日本軍の主力と正面から戦って疲弊していくのを尻目に、農村部を拠点にゲリラ戦を展開し、小作農を保護する政策などを通じて巧みに民衆の支持を集め、その勢力と支配地域(解放区)を飛躍的に拡大させていった。
1945年8月の日本の敗戦により「共通の敵」が消滅すると、国共合作はその歴史的役割を終えて直ちに崩壊し、再び国共内戦が勃発する。しかし、合作期間中に強固な大衆基盤を培っていた共産党はかつての弱小勢力ではなくなっており、最終的にアメリカの支援を受ける国民党を台湾へと追いやることに成功した。第2次国共合作は、日本の敗北を決定づけただけでなく、1949年の中華人民共和国建国へと至る中国現代史の巨大な転換点であったと言える。