支那事変 (しなじへん)
【概説】
1937年の盧溝橋事件に端を発した日本と中国との全面的な軍事衝突に対し、当時の日本政府が用いた公式呼称。国際法上の「戦争」にあたるものの、双方ともに宣戦布告を行わなかったため「事変」と称された。1941年の太平洋戦争開戦にともない「大東亜戦争」に統合され、戦後は一般に「日中戦争」と呼ばれる。
「戦争」ではなく「事変」とされた背景と米中立法
1937年7月の盧溝橋事件を契機に、日本軍と中国の国民政府軍との戦闘は華北から上海、さらには南京へと拡大し、事実上の全面戦争へと突入した。しかし、日中双方とも相手国に対して宣戦布告を行わなかった。日本政府が「戦争」という言葉を避け「事変」と称し続けた最大の理由は、アメリカ合衆国の中立法の適用を免れるためであった。
当時、軍需資源や近代兵器の製造に必要な石油・屑鉄などの物資をアメリカに深く依存していた日本にとって、国際法上の「戦争」状態になることは致命的であった。アメリカの中立法が発動されれば、交戦国への軍需物資の輸出が全面的に禁止されるためである。一方の中国(蒋介石の国民政府)側も、法的な戦争状態になることでアメリカからの物資調達や大国による支援が途絶えることを恐れ、宣戦布告を避けた。このように、双方の経済的・軍事的思惑が一致した結果、国際法上のグレーゾーンである「未宣戦の戦争(事変)」としての戦闘が継続されることとなった。
不拡大方針の破綻と「国民政府を対手とせず」
当初、陸軍参謀本部の一部や近衛文麿内閣は、対ソ連戦への備えや軍事準備の不足を理由に「不拡大方針」を掲げ、事態を現地解決(北支事変)に留めようとした。しかし、現地軍の独断専行やナショナリズムの高揚に押され、戦火は中国全土へと拡大していった。これに伴い、日本政府は同年9月に呼称を「支那事変」へと改めた。
同年12月に首都・南京を占領した日本は、ドイツを仲介とした和平交渉(トラウトマン工作)を進めたが、戦勝に沸く軍部や世論を背景に要求を過激化させ、自ら和平の機会を潰した。1938年1月、第一次近衛文麿内閣は「爾後(じご)国民政府を対手(あいて)とせず」とする声明(第一次近衛声明)を発表し、交渉の窓口を完全に閉ざした。これにより事変の平和的解決は不可能となり、日本は底なしの泥沼戦へと足を踏み入れることとなった。
総力戦体制への移行と「大東亜戦争」への合流
長期化する支那事変に対応するため、日本国内では急速に戦時統制が強化された。1938年には議会の承認なしに物資や人員を動員できる国家総動員法が制定され、国民生活のあらゆる分野が戦争遂行のために再編成された。しかし、蔣介石率いる国民政府は重慶に拠点を移して徹底抗戦を続け、英米などによる物資援助ルート(援蔣ルート)を通じて抵抗を維持した。
日本は事変の解決(中国の屈服)を目指して東南アジアへの進出(南部仏印進駐など)を試みたが、これがアメリカによる「対日石油輸出の全面禁止」という致命的な報復を招くこととなった。追い詰められた日本は1941年12月、アメリカやイギリスに対して宣戦を布告し、太平洋戦争が勃発した。これに伴い、東條英機内閣は支那事変を「大東亜戦争」に含めることを閣議決定し、支那事変という独立した枠組みは、より広大な世界戦争の一部へと解消されることとなった。