北支事変

盧溝橋事件直後、日本政府が戦火は中国北部のみにとどまるとの認識から、この武力衝突を何と呼称したか?
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重要度
★★

北支事変 (ほくしじへん)

1937年

【概説】
1937年7月の盧溝橋事件勃発直後、日本政府(第1次近衛文麿内閣)がこの日中間の武力衝突を局地的なものとみなして用いた公式呼称。宣戦布告を伴う「戦争」とすることを避け、事態の不拡大を建前としたが、戦火が華中・華南へと拡大したことに伴い、短期間で「支那事変」へと改称された。

盧溝橋事件の勃発と「北支」への限定意図

1937年(昭和12年)7月7日夜、北京郊外の盧溝橋付近で日本軍(支那駐屯軍)と中国軍(国民革命軍)との間に衝突が発生した(盧溝橋事件)。当初、現地では停戦協定が模索されたものの、近衛文麿内閣は国内の対中強硬論や陸軍内の拡大派に押される形で、7月11日に華北への派兵を決定した。

この際、日本政府は共同宣言の中で、この衝突を華北(当時の日本側の呼称で「北支」)地域における局地的な紛争にとどめる意思を示すため、「北支事変」と命名した。これは、事態を全面的な「戦争」に発展させず、速やかに中国側に妥協を強いて結末をつけようとする、日本側の楽観的な見通しに基づいたものであった。

「戦争」ではなく「事変」とされた背景

日本政府が「戦争」という表現を意図的に避け、「事変」という言葉を用いた背景には、国際法上の重大な懸念が存在していた。もし日中双方が「宣戦布告」を行い正式な戦争状態に入ると、当時のアメリカ合衆国が定めていた中立法が発動されることになっていた。

中立法が発動されると、軍需物資や石油・鉄鋼などの重要資源の日本への輸出が制限されるため、資源の大部分をアメリカに依存していた日本にとって極めて致命的な打撃となる。同様に、中国(蒋介石の国民政府)側もアメリカからの軍事援助が途絶えることを恐れたため、双方とも宣戦布告を行わず、実質的な全面戦争でありながら「事変」という曖昧な呼称を維持し続けることとなった。

戦線拡大と「支那事変」への改称

近衛内閣は「不拡大方針」を掲げつつも、中国側の徹底抗戦の意志を見誤り、次々と増兵を重ねた。その結果、同年8月には戦火が華南の上海へと飛び火し(第2次上海事変)、武力衝突はもはや華北一帯(北支)に限定できない全面戦争の様相を呈した。

ここに及んで日本政府は、もはや「北支事変」の呼称が実態に合わなくなったと判断し、1937年9月2日の閣議決定によって、呼称を「支那事変」へと改めた。この「支那事変」は、1941年12月に日本が英米両国に宣戦布告して太平洋戦争(当時の呼称は「大東亜戦争」)に突入し、これに統合されるまで、日中間の未宣言戦争を指す正式な国策用語として使用され続けることとなった。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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