内大臣(平安時代) (ないだいじん)
【概説】
大宝律令などの基本法令には規定が存在しなかったが、のちに太政官における左大臣・右大臣に次ぐ重職として新設された令外官(りょうげのかん)。平安時代中期以降、藤原氏による摂関政治が進展する過程で常置の官職として定着し、朝廷の政策決定を担う最高幹部(三大臣)の一角として機能した。
令外官としての創設と初期の任官
701年(大宝元年)に制定された大宝律令における太政官(最高行政機関)の規定では、大臣として太政大臣・左大臣・右大臣の三職のみが定められており、内大臣は存在していなかった。その源流は飛鳥時代、大化の改新で功績を挙げた藤原鎌足が任じられた「内臣(うちつおみ)」にあるとされている。
その後、奈良時代末期の777年に藤原良継が任じられたのを皮切りに、平安時代前期にかけて、特定の有力者を特別に処遇するため、あるいは右大臣が欠員となった際の臨時職として、散発的に任命される令外官として扱われていた。初期の内大臣は、あくまで例外的なポストであった。
摂関政治の進展と常置化
内大臣が常置の官職として完全に定着するのは、平安時代中期の10世紀末から11世紀にかけてのことである。藤原北家が天皇の外戚として権力を独占し、摂関政治を確立していく過程で、一族の有力子弟を要職につけ、迅速に大臣へと昇進させるための「ポスト」が必要となったのである。
例えば、藤原道隆や藤原道長ら兄弟が権力掌握を巡ってしのぎを削った時代、彼らは自らの政治的地位を固めるために内大臣のポストを活用した。このように、有力貴族間の熾烈な権力闘争や、高位の昇進渋滞を緩和する現実的な目的から、内大臣は臨時職から左・右大臣に次ぐ「第三の大臣」として定常的に置かれるようになった。
太政官における地位と後世への影響
常置化された内大臣は、左大臣、右大臣とともに「三大臣」と称され、太政官における最高首脳陣の一角を占めた。実務においては、右大臣を補佐し、事実上は右大臣へと昇格するための有力な踏み台としての性格を強く帯びていた。
平安時代を通じて、内大臣の地位は公家社会における最高の栄誉の一つとして定着し、中世・近世へと存続していくこととなる。のちに江戸幕府を開く徳川家康が広く「内府(ないふ)」と呼ばれたのも、彼が朝廷からこの内大臣に任じられていたためである。このように、本来は律令の枠外であった臨時の官職が、時代の政治的要請に合わせて国家の最高機関に組み込まれ、制度化されていった点に、日本の古代官制の柔軟な変容を見て取ることができる。