大納言 (だいなごん)
【概説】
日本の律令制において、最高政務機関である太政官に置かれた令制の重職。太政大臣・左大臣・右大臣などの大臣に次ぐ地位であり、天皇や大臣を補佐して国政の重要事項を合議する役割を担った。
律令制の導入と大納言の誕生
大納言の前身は、天武天皇期に設けられた「納言(のちの大納言・中納言・少納言の源流)」とされる。これが701年(大宝元年)の大宝律令の制定によって「大納言」として正式に法制化された。当初の定員は4名であり、天皇への奏上や宣下の取り次ぎ、さらには国政の最高方針を審議する最高幹部(公卿)として、きわめて高い政治的権限を与えられていた。
しかし、705年(慶雲2年)の官制改革(大宝律令の修正)により、大納言の定員は2名へと削減される。これに伴い、大納言の職務を補佐し政務の停滞を防ぐため、新たに「中納言」が設置されることとなった。この改革によって、太政官における大納言の希少価値と地位はさらに高まることとなった。
「権官」の増加と貴族社会における変遷
平安時代に入ると、律令の規定(本官)を超えて臨時に任用される「権官(ごんのかん)」という制度が定着した。大納言においても、正規の定員外のポストとして権大納言(ごんのだいなごん)が置かれるようになった。貴族人口の増加や藤原北家による権力集中が進むなかで、権大納言の定員は徐々に増加し、平安後期には実質的な大納言の定員は大幅に拡大することとなった。
大納言は、中国の官職風の呼び名(唐名)で亜相(あしょう)とも呼ばれた。これは「相国(大臣)」に次ぐ者という意味であり、公家社会において大臣一歩手前の最高到達点として極めて重視された。また、平安中期の政治決定システムである「陣定(じんのさだめ)」においても、大納言は議長格として議論を主導し、朝廷の意思決定に深く関与し続けた。
武家政権と大納言
鎌倉時代以降、武士が実権を握るようになっても、大納言をはじめとする朝廷の官位は、武士の格付けや権威づけのために重用された。鎌倉幕府を開いた源頼朝は、1190年に権大納言・右近衛大将に任じられており、これがのちの将軍家の格式の基準となった。戦国時代の織田信長や豊臣秀吉、徳川家康らも、自らの権力を朝廷から正当化される過程で大納言などの高官に昇進しており、律令制が形骸化した後も、国家の最高格を示すシンボルとして重要な機能を果たし続けた。