内臣 (うちつおみ)
【概説】
乙巳の変(645年)の直後、孝徳天皇を中心とする大化新政権において新設された、天皇の側近として機密の政務に参画する臨時の官職。初代にして事実上唯一の就任者である中臣鎌足(のちの藤原鎌足)が、天皇や皇太子である中大兄皇子を補佐し、大化の改新を主導するための政治的基盤となったポストである。
乙巳の変と「内臣」新設の背景
645年、中大兄皇子や中臣鎌足らが蘇我入鹿を暗殺した乙巳の変により、長年にわたり朝廷を支配していた蘇我氏の本宗家が滅亡した。これを受けて皇極天皇は譲位し、軽皇子が即位して孝徳天皇となり、中大兄皇子が皇太子に就任した。この大化新政権のもとで、日本は従来の氏姓制度に基づく豪族連合政権から、天皇を中心とする中央集権国家(律令国家)への移行を目指し始めることとなる。
新政権の布陣として、豪族の代表である左右大臣には阿倍内麻呂(左大臣)と蘇我石川麻呂(右大臣)が、学術顧問である国博士には高向玄理と僧旻が任じられた。しかし、政権の実質的な主導権を握る中大兄皇子と中臣鎌足にとって、旧来の門地(家柄)を持つ大臣たちの意向を汲みつつも、自らの改革案を強力に推し進めるための特別な役職が必要であった。こうして、伝統的な官位体系とは一線を画す、天皇直属の最高顧問的なポストとして新設されたのが内臣である。
初代内臣・中臣鎌足の政治的役割
中臣鎌足は神祇を掌る伝統的な氏族の出身であり、本来は大王(天皇)を補佐する最高政務官である「大臣」や「大連」に就任できる家柄ではなかった。しかし、内臣に就任したことで、鎌足は既存の勢力図や宮廷の序列を越えて、国家の機密事項や最重要政策の立案に深く関与することが可能となった。
鎌足が果たした内臣の役割は多岐にわたる。天皇や皇太子と密接に連携し、政策の調整役として機能したほか、改新の詔の起草や、地方支配制度である「評(こおり)」の設置など、律令制の基礎となる諸改革を強力に牽引した。内臣はまさに、旧来の豪族たちの反発を抑えつつ、天皇親政の名のもとに独裁的な改革を断行するための「天皇の知恵袋」であり「実務の執行機関」であった。
「内臣」の歴史的意義と令外官の源流
内臣は、大宝律令などの体系的な律令が制定される以前の臨時の官職であり、のちの律令の体系に規定されない令外の官(りょうげのかん)の先駆けとして評価される。鎌足が天智天皇より「藤原」の氏姓を賜り、最高位である「大織冠」を授けられて病没したのち、大化期の「内臣」としての職能は一旦途絶えることとなる。
しかし、奈良時代に入ると、天皇の秘書官としての役割を持つ「内臣」や「内大臣」が臨時に復活し、鎌足の孫にあたる藤原房前らが任命された。これは、律令に規定された正式な太政官組織(左大臣・右大臣など)の外側から、藤原氏が天皇との個人的な結びつきを背景に権力を維持・拡大するための有力な武器となった。このように、大化の改新における「内臣」の誕生は、その後の日本古代史における側近政治や摂関政治の萌芽を示す、制度史上の重要な一歩であったといえる。