徳川綱吉

高校日本史的重要度
★★★

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徳川綱吉

1646年〜1709年

【概説】
江戸幕府の第5代将軍。治世の前半は儒学を重んじ「天和の治」と呼ばれる文治政治を推し進めたが、後半は「生類憐みの令」の発布や貨幣改鋳を行い、社会に混乱をもたらした。上方を中心に元禄文化が花開いた時代の将軍でもあり、近年ではその政治的意図に対する歴史的再評価が進んでいる。

将軍就任と「天和の治」

徳川綱吉は、第3代将軍徳川家光の四男として生まれた。上野国館林藩主となっていたが、1680年(延宝8年)に第4代将軍である兄・家綱が後嗣を持たないまま死去したため、その養子として迎えられ第5代将軍に就任した。

就任直後の綱吉は大老堀田正俊を重用し、厳正な賞罰のもとで幕政の刷新を図った。越後高田藩の御家騒動(越後騒動)を将軍親裁で裁定し、諸国への巡見使の派遣や、有能な人材の登用を行った。また、戦国時代以来の殺伐とした風習を廃し、儒学(特に朱子学)に基づく徳治主義を掲げた。林信篤鳳岡)を大学頭に任じて湯島聖堂を建立させるなど学問を奨励し、武断政治から文治政治への転換を決定づけた。これらの治世前半の善政は天和の治と称賛されている。

側用人政治の展開

1684年(貞享元年)に江戸城内で大老堀田正俊が暗殺される事件が起きると、綱吉の政治姿勢に変化が生じた。暗殺を防ぐ目的などから老中の執務室(御用部屋)を将軍の居室から遠ざけ、将軍と老中の間を取り次ぐ役職として側用人を新設した。

綱吉は、館林藩主時代からの家臣であった牧野成貞や柳沢吉保らを側用人に抜擢し、彼らを通じて老中に指示を出すようになった。これにより老中の権力は低下し、将軍の独裁的な権力が強化された。特に柳沢吉保は綱吉の絶大な寵愛を受け、幕政において多大な影響力を行使することとなる。

「生類憐みの令」とその歴史的意義

綱吉の治世後半を象徴するのが、1685年(貞享2年)から約20年間にわたって断続的に出された動物愛護・保護法令の総称である生類憐みの令である。対象は犬にとどまらず、鳥や魚、昆虫、さらには捨子や病人などの保護も含む広範なものであった。特に犬の保護が極端に推進されたため、綱吉は「犬公方」と揶揄された。

かつては、綱吉の母・桂昌院が傾倒した僧侶の勧めで出された「天下の悪法」として否定的に評価されることが多かった。しかし近年の歴史学の研究では、単なる迷信に基づくものではなく、戦国時代から続く殺伐とした遺風を否定し、社会の隅々にまで仁政を行き渡らせるための文明化政策であったという再評価が定着している。とはいえ、密告の奨励や過酷な処罰によって民衆や武士を苦しめ、社会的な不安と不満を増大させたことは事実であった。

財政悪化と元禄の貨幣改鋳

綱吉の時代には、幕府の財政が急速に悪化した。1657年の明暦の大火以降の都市復興費用の蓄積に加え、綱吉自身が寺社造営を好んだこと、さらに幕府の諸儀式の華美化などが支出増大の主な原因であった。

この財政難を乗り切るため、1695年(元禄8年)に勘定吟味役の荻原重秀の献策を受け、金銀の含有率を下げた新しい貨幣(元禄金銀)を発行する貨幣改鋳を断行した。これにより幕府は莫大な改鋳利益(出目)を得て一時的に財政を潤したが、実質的な貨幣価値の低下を招き、急激なインフレーションが発生した。結果として人々の生活は圧迫され、経済的な混乱を引き起こすこととなった。

元禄文化の開花と後世の評価

政治的・経済的な混乱は見られたものの、綱吉の治世下は上方(京都・大坂)を中心に町人たちの経済力が向上し、華やかな元禄文化が花開いた時代でもあった。井原西鶴浮世草子近松門左衛門浄瑠璃松尾芭蕉の俳諧など、日本文学や芸術に多大な足跡を残す傑作が次々と誕生した。

徳川綱吉は、長らく「生類憐みの令」の悪名により暗君として扱われてきた。しかし、彼が目指した儒教的な徳治主義や法と秩序の徹底は、江戸幕府の支配基盤を安定させ、平和な法治国家を確立する上で不可欠なプロセスであった。そのため現代においては、近世社会への転換を強力に推し進めた改革派の将軍として、多角的な視点から再評価が行われている。

最終更新:
2026年6月16日 @ 07:16

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