近松門左衛門 (ちかまつもんざえもん)
【概説】
江戸時代前期から中期にかけて上方で活躍した浄瑠璃および歌舞伎の作者。井原西鶴、松尾芭蕉と並ぶ元禄文化を代表する文豪の一人であり、『曽根崎心中』や『国性爺合戦』などの名作を多数執筆し、娯楽であった人形浄瑠璃を高度な文学的芸術へと高めた。
武士から浄瑠璃作者への異例の転身
近松門左衛門は、越前国福井藩士・杉森信義の次男として生まれた。本名を杉森信盛という。武家の出身でありながら、青年期に一家で京都へ移り住み、公家などに仕える中で古典文学や芸能の深い素養を身につけた。やがて武士の身分を捨て、演劇の世界へと足を踏み入れることになる。
当時の演劇界において「作者(脚本家)」の地位は極めて低く、役者や太夫の下働きのような扱いを受けるのが一般的であった。しかし近松は、自らの署名を台本に明記することで、独立した劇作家としての専門的地位を確立した。これは日本の演劇史において画期的な出来事であった。
竹本義太夫・坂田藤十郎との提携
近松が活躍した時代は、上方(京都・大坂)を中心に町人たちの経済力と活気が背景となった元禄文化が花開いた時期であった。近松は1685年(貞享2年)、大坂で豪快にして情味あふれる語り口で人気を博していた浄瑠璃太夫の竹本義太夫のために『出世景清』を執筆した。この作品は、それまでの古浄瑠璃とは一線を画す高い文学性を持ち、義太夫節という新しい人形浄瑠璃の黄金時代を告げる記念碑的作品となった。
また、浄瑠璃だけでなく歌舞伎の脚本も精力的に執筆した。特に、京都で上方歌舞伎の「和事(わごと・優男の恋愛模様などを柔らかく演じる芸風)」を確立した名優・坂田藤十郎と提携し、彼のために多くの名作を提供して上方歌舞伎の隆盛に大きく貢献した。
「世話物」の創始と義理人情の葛藤
近松の功績として極めて重要なのが、市井の庶民の生活や実際の事件を題材とした「世話物」という新ジャンルを開拓したことである。1703年(元禄16年)、大坂で実際に起きた醤油屋の手代と遊女の心中事件を題材に、わずか数週間で書き上げた『曽根崎心中』は空前の大ヒットを記録した。竹本座の経営危機を救ったとも言われるこの作品により、世話物浄瑠璃が定着することとなる。
近松の世話物は、封建社会における身分や道徳的規範である「義理」と、人間の自然な愛情や欲望である「人情」との間の板挟みになり、破滅的な結末(心中)へと追いつめられていく男女の悲劇を美しく、かつ残酷に描き出した。代表作には『冥途の飛脚』や、文学的に最高傑作と評される『心中天網島』などがある。これらの作品があまりに流行したため、現実の社会でも後追い心中をする若者が続出し、のちに江戸幕府が「心中物」の上演を禁止する禁令を出すほどの社会的影響力を持った。
「時代物」のスケールと後世への影響
庶民を描く世話物の一方で、近松は歴史上の事件や武将の活躍を描く「時代物」においても不朽の名作を残している。その代表格が1715年(正徳5年)に初演された『国性爺合戦(こくせんやかっせん)』である。明朝の復興のために戦った英雄・鄭成功をモデルにしたこの作品は、日本と中国を股にかける壮大なスケールと奇想天外な展開で観客を魅了し、足掛け3年にわたる大ロングラン興行となった。
近松門左衛門は、劇作において「虚実皮膜の論(芸術の真実は、事実と虚構のわずかな隙間にあるという考え方)」を唱えたと伝えられている。彼が残した百数十編に及ぶ浄瑠璃台本は、単なる上演用台本を超えて優れた文学作品として読まれ、その深い人間洞察と劇的構成の巧みさから、後世の人々に「東洋のシェイクスピア」と称賛されるに至った。彼が描いた「義理と人情」のテーマは、現代に至るまで日本人の精神史や物語の基本構造に多大な影響を与え続けている。